ケイコ 目を澄ませて(三宅唱)レビュー
主役は耳の聞こえないボクサー、ケイコ。弟に「勝手に人の心読まないで」「話したからって解決しない」と伝える彼女は、他人が思考の先回りをすることを嫌がるし、言葉の駆け引きでは欲しいものは何も手に入らないことを経験的に知っている。
この映画では情緒的に分かりやすい物語展開は注意深く避けられる。しかし、それ自体が破棄されているわけではない。物語を誘発するのは空間と身体である。
ケイコの生活圏は概して河川敷や階段下といった低い土地で、そうした深さを持った土地で人たちが水になじむように生きている。そこに発生する時間を描くだけで情緒が生じるなんて、驚きの発見である。
舞台はコロナ禍の東東京。ボクシングジムには「毎日検温」の貼り紙があり、大会は無観客試合になってしまう。
そんなコロナ禍において顕在化したのは身体の不在である。私たちはマスクやオンラインによって外界との接触点を自ら封じてしまった。だが、この映画の人物たちは、他人の身振りに誘発されて動き出す。電車の光や轟音に反応して揺さぶられる。
映画では恋愛も家族間の相克も描かれない。そこにあるのはジムや職場といった限りある場所での弱いつながりばかりだ。
でも、そこに互いの身体があって、互いが感応し合うだけで、そこには愛の萌芽がある。私たちがコロナ禍で失ったのは、たよりない魂が交歓しあう空間と身体であり、それは愛を蔑ろにすることであったことに思い至る。
(BRUTUS 2023年 11月15日号「愛って。その答えが見つかる名作映画300」に寄稿)
※この映画に関する批評として、『ユリイカ2022年12月号 特集 三宅唱』掲載の平倉圭「深さと距たり」をぜひ読んでみて下さい。
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