千葉雅也『意味がない無意味』について
千葉雅也『意味がない無意味』(河出書房新社)を読んだ。全体に緻密で難解ないわゆる「論文集」なのだが、随所に特別な旨味がある。
意味がある無意味「穴=秘密」は「信仰主義」の拠点になる。無意味という「穴」に、カントの「物自体」やフロイトの「無意識」、ラカンの「現実界」を適合させようとした私自身の試みも、いかにも宗教的動機だったことがいまならわかる。
対して、彼の言う、意味がない無意味「石=秘密」というのは、ラカンの「他の享楽」や東浩紀=デリダの「郵便的脱構築」、浅田彰=ドゥルーズ・ガタリの「リゾーム」に対応する。千葉がマラブーやメイヤスーから導き出した「物質的世界は根本的に変化可能、破壊可能」については、詳しくは書かないが、私自身が自分の身体を使って試してきた実感に直接触れてくる。
彼が「意味がない無意味」の中に見出す、「思考の深まりを停止させる」無意味としての<形態>、<文字通りにそれでしかない>ものとして横たわる<身体>の興奮。これらが「現実性」の中で妖しく光るエロさ。私はこの論集を読みながら、はあぁとなって何度かページを閉じた。この本のことが「わかった」と思った。千葉の論考を読むことは、時に艶めかしいBLや暴力的なエロ小説を読んでいるのと似たものがあり、その読み方は正しいと思っている。そして、そのエロスの下部には厳粛な「閉域」があり、この「閉じられた無意味」を語るときには、いつもより寡黙な千葉少年がいる(気がする)。
ちなみに、私が千葉の思想から得た最大の成果は、必ずしも「深さ」に向かわなくてもよいという教えである。これは「深さ」に「向かわなければならない」と信じ込まされてきた私にとっては驚くべきことだった。これまで、別の著作家たちによる「意味のない無意味」変形譚に触れてきたのにかかわらず、千葉の文章を読んでようやく私がそれを呑み込めたのは、「深い解釈」に向かわない「頭空っぽ性」のほうがむしろセクシーなのだ、ということを千葉はその文体(body)で私に教えてくれたからである。
「具体的なものの切迫によってかき乱される瞬間にこそ、私の関心」があると言う千葉にとって、「現実性の側にもうひとつの原理性を認められないか」という「エネルゲイア(現実態)」の問題はマイノリティ当事者としての切迫した課題である。彼は「無意味であることの権利を擁護」したいとも語っており、千葉が「意味のない無意味」に焦点を当てた理由はそこにある。と同時に、ラカンの読み直しを通して、そのことがマイノリティに留まらない卑俗で平凡なありふれた欲望の問題であることを詳らかにしてきたのが彼の仕事である。
ラカンの「他の享楽」はファルス享楽と排他的関係にあるのに対して、千葉は「ファルスを超越するのではなく、ファルスと並立する、それの「傍ら」にある「非勃起的」盛り上がり」を提唱する。この辺りは、いまだチ●ポの大きさ比べばかりやっている男性批評家たちにはただならぬことであり、それこそ「意味がわからない」かもしれない。非勃起的もっこりのほうがセクシーというのは、おそらく彼らの規範の埒外である。
このような「並立すること」を千葉は別の箇所で「分身」と名づける。私はこの概念にとても好感を持った。それは超越的な乗り越えではなく、ポリコレ的にファルスを排除し抑圧するのでもなく、それらとは「別のしかた」のアイデアであり、「別のいまここ」へのジャンプである。
本の最後の「プロレス試論」はいきなり「非勃起的」盛り上がりのことを話されても面喰ってしまいそうな人たちにとっても一見したところ優しい(易しい)内容になっているので、読む自信がない人たちはこれから読んでもよいのかもしれない。
*2020年2月「寺子屋ブログ」に書いた記事を改稿
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