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年末年始という時間の折り目について

年末年始という時間に身を委ねながら、一年の区切りを実感することは、人の生活にとって大切なことです。

ゆく年くる年を見ながら除夜の鐘の音を聞いて厳粛な気持ちになってわずかかに心が揺さぶられる。年が明けたら「明けましておめでとう、今年もよろしく」と身近な人の間で伝え合って少ししみじみとする。そしておせちを食べて、たいして面白くないテレビを見ながらこたつに入ってウトウトとする。

無益な時間を過ごしたようで、そういう正月の実感を得ること、つまり一年が区切られてまた新たに始まったという感覚を味わうことは、その先を生きるために欠かせないことです。

初詣なんかに行って何の意味があるんだろう。若い頃の私はそう考えていましたが、持続する時間にスラッシュを入れることでようやく確かめることができる生の輪郭がある。持続を一旦停止することで、新たに動き出す意識がある。そのことがいまならわかります。

この意味では、元旦から模試やら授業やらを入れて、子どもたちから正月の時間を奪う予備校や学習塾のやり方に私は全く首肯できません。そんなスケジュールを子どもに強要する彼らは、時間に折り目をつけることの効用を舐めているんです。

なぜ人間が新年という区切りを必要とするのかという洞察は、きっと子どもたちのこれからの人生の深いところにかかわっていて、そういう大切なことを見過ごしたまま、近視眼的に目の前だけを見るように促す学習指導は、子どもの人生を貧しくします。

哲学者のベルクソンは、音楽の旋律のように持続する時間をあるがままに生きること、過去の自分と現在の自分とが溶け合いながら、切れ目なく変化していく新しい自分を受け止めていく意識を有することを「純粋持続」と名づけ、そこに自由を見出しました。

時間の折り目を意識して新たな活力を得ること。このことは、窒息することなくいまを生きるために私たちに必要なことです。私たちは間違えずに選択することばかりを気にしがちですが、重要なのはむしろ選択の先に変化していく自分を受け止めていく力であり、その力によって自由を得るための区切りとして正月があり、初詣があるのでしょう。

(2023年1月9日 西日本新聞連載「こども歳時記」より)

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