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東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(第1部 観光客の哲学)レジュメ

『ゲンロン0 観光客の哲学』 東浩紀       発表者:鳥羽和久

2017年7月に東浩紀さんが福岡・とらきつねにお越しになった際に作成したレジュメです。 この記事では第1部のみ。


◇はじめに

本書は哲学書である。21世紀のこのネットとテロとヘイトに覆われた世界において、ほんとうに必要とされる哲学はどのようなものか考えてきた。p6 

以下の議論では「誤配」が鍵 
本書はまさしく誤配の産物 p8
→最初から書こうとして書かれた本ではない
誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だからぼくたちは積極的に誤配に身を曝さねばならない。p9

 
第1部 観光客の哲学

 〇第1章 観光

 ①「観光」という戦略について

特定の共同体のみに属する「村人」でも、どの共同体にも属さない「旅人」でもなく、基本的には特定の共同体に属しながらも、ときおり別の共同体も訪れる「観光客」的なありかたが大切だ(『弱いつながり』2014) p14 

 ⇒「ウチ」でも「ソト」でもない第三の存在様式 
  「中心-周縁」図式 (山口昌男)
⇒「共同体」は閉じているからだめで、
    「外部」からやってくる「他者」が 必要だ(柄谷行人)p14

観光客論と他者論は、本質的には同じかもしれない。(p15)

しかし、
「他者」・・・左翼的・文学的・政治的・ロマンティックな言葉
「観光」・・・じつに商業的・即物的・世俗的な言葉

このニュアンスの差異こそ重要
その差異の意味を理論的に基礎づけるのが本書の目的 p15

「リベラル知識人」たち=共同体の外部にある「他者」を尊重するべきだ
大戦で膨大な死者を生み出した人類がたどりついた最低限の共通の倫理 p16

いま、「他者を大事にしろ」という単純な命法に、だれもが耳を貸さなくなり始めている。他者とつきあうのは疲れた、まずは自分と自分の国のことを考えたい、と考える人たちに「他者を大事にしろ」というリベラルの命法は届かない p16

例)イギリスのEU離脱/トランプ大統領の誕生/テロリズム/ヘイトスピーチ p16

だから戦略として、他者のかわりに観光客という言葉を使うことで、人々をリベラルの命法のなかに、いわば裏口からふたたび引きずり込こむことが本書の目的。p17

 

②「観光」とは何か

 「観光」は現実の観光産業とあまり関係をもたない。
「観光」は哲学的概念である。p17

 観光客の増加/特にインバウンド(国境を越える観光客)の増加が顕著
=全世界的な傾向。20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるかもしれない。p20-21

観光は19世紀に生まれ、20世紀に花開き、21世紀はいよいよ観光の時代になるかもしれない。だとすれば、現実的な観光の体験を語ることは思想ではないのではないか?という直観に逆らって、いま観光の意味についての哲学的考察が必要なのではないか。p30

 

観光の定義
・楽しみのための旅行 
・訪問地で報酬を得る活動を行うことと関連しない
・日常の生活圏の外に旅行したり、また滞在したりすること p21

 しかし、観光(ツーリズム)は近代に生まれた言葉 p22

近代の観光の本質的特徴は「大衆性」
→産業革命が生み出した大衆社会と消費社会を背景に、富裕層だけでなく労働者階級に余暇が広がる(ション・アーリ,ヨーナス・ラースン p23-24)

トマス・クックは、観光を通じて大衆を啓蒙し、社会をよくすることができると本気で信じた人物であり、近代観光はその信念から始まっている。p26
クックの試みは貴族や知識人などの古い既得権益層と衝突する行為だった。p26

では、ぼくたちの文明にとって観光はどのような意味をもつだろうか。観光は世界をどう変えるのか。いままでの学問はこの問いに何も答えていない。または否定的にしか答えていない。

ダニエル・ブーアスティンの観光客批判
観光は典型的な「疑似イベント」である
われわれは窓から外を見る代わりに鏡のなかを見ている。そこに見えるものはわれわれ自身の姿である。

旅(トラベル)は本物に触れるからいいが、観光(ツーリズム)は本物に触れないからだめだ
=「観光」の知的軽視の雛形 p28

 資本主義と深く結びついた観光のダイナミズムそのものに、観光学者(例としてション・アーリ、ヨーナス・ラースン)さえいいところを見つけられない

 ではそれなのになぜいま世界は観光客に覆われつつあるのか? 愚かだからなのか?

 
③「観光客の哲学」の狙いとは?

 (1)グローバリズムについての新たな思考の枠組みをつくること。

国境を(縦横無尽に)超える観光は、グローバリズムと切り離せない。 p31
グローバリズム=悪 とは考えない。(その捉え方こそがいままでの人文思想の限界) p32
世界の均質化、フラット化は、決して負の面だけでは語れない。「人類はいま確実に、より豊かで、より健康になっている」 p33
観光客の哲学的意味を問うことは、この「フラット化」の哲学的な意味を問うこと p33
観光客をめぐる思考は「抵抗」の足掛かりになるはず。p34

 (2)人間や社会について、必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みをすること。

19世紀前半のパリに現れた「遊歩者」=パサージュにある各店の店先を覗きこみながらぶらぶらと無為に歩く人々。
「観光客」も同様に、訪問先の風景のなかに、遊歩者のように入っていく人々。観光客は訪問先で生活上の必要をもたない。買うべきもの、行くべき場所もない。観光客にとっては訪問先のすべての事物が偶然のまなざしの対象となる。観光のまなざしとは、世界すべてをパサージュ=ショッピングモールと見なすまなざしのこと。p34-35

観光客の本質をとらえるうえで「ふわふわ」性(偶然性)はきわめて重要。そこにこそ観光客の限界と可能性がある。 p36

 (3)「まじめ」と「ふまじめ」の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げること。

「まじめ」・・・学者が考えること・本質的 / イデオロギーを持つ政治犯・テロリスト/ 政治家や要人を標的とするテロリスト / 公的な基準で「友」と「敵」を分ける

「ふまじめ」・・・観光・非本質的 / イデオロギー・政治的信条を持たないテロリスト/ 日々を幸せに生きる大衆(労働者階級)を標的とするテロリスト/ 公的で政治的な目的を持たない

昨今のテロは「まじめ」とも「ふまじめ」とも言えない行為。政治とは原理的に「まじめ」な行為であるが、いまのテロリストたちは「まじめ」な、つまり公的で政治的な目的を持たない。テロリスト自身が観光客的な存在になっていることこそに問題がある。

「まじめ」な目的をもたないテロリストたちの動機を「まじめ」に探ろうとしても空振りするだけである。いちど「まじめ」と「ふまじめ」の境界を棚上げする必要がある。政治的行動の背景には政治的意志なり決断があるという前提を、根本から疑うべき。そして観光客的なるものと政治の関係を、根本から再考する必要がある。p37-39

 政治は「まじめ」と「ふまじめ」の峻別なしには成立しない
文学はその境界について思考することができる

観光客とは、政治と文学のどちらにもおらず、
またどちらにもいる存在の名称 p40

 
〇付論 二次創作

 観光客の視線による分析が、現代のコミュニティ分析や地域研究では最初から必要

原作者と二次創作者の関係がそうであるように、いまはあらゆる場所が、観光客の視線をあらかじめ内面化し、町並みやコミュニティをつくっている。⇒すべてがテーマパーク化
⇒「他者の欲望を欲望すること」が全面化する社会に生きている

二次創作の可能性を織り込むことなしにはだれも原作が作れず、観光客の視線を織り込むことなしにはだれもコミュニティがつくれない。
観光客とは「現実の二次創作者」なのだ。

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〇第2章 政治とその外部

 ①ルソーの「一般意思」

 「ジャン=ジャック・ルソー問題」
=思想家ルソーと文学者ルソーの分裂

・思想家ルソー
「一般意思はつねに正しい」→共同体の意志が個人の意志に優越すべきと主張するものと受け取られてきた
・文学者ルソー 
孤独を尊び、偽善を許さず、共同体の規範の押し付けを許さない徹底した個人主義者

そこには本当に分裂があるのか?

「一般意思」の再解釈
=社会性の媒介なしに社会を生み出してしまう逆説的な装置

人間は人間が好きではなく、本来は社会など作りたくないはず
→にもかかわらず、人間は現実には社会をつくった

個人主義の文学者が全体主義的な社会を生み出すメカニズムを考案したときに、その必然性から生み出されたのが「一般意思」の概念

→思想家ルソーと文学者ルソーの間に矛盾・分裂はない p62,63

人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。公共性などだれももちたくないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認識 p64

 

 ②分裂と切り分けに異議申し立てをする「観光客の哲学」

なぜ人々はそこに分裂を見てきたのか? 
この問いと「観光客の哲学」は深く関係している。p64

19世紀以降の社会思想 
ヘーゲル主義 / ナショナリズム
人間は人間が好きであり、社会=国家のなかでどんどんみずからを高めていくもの。そうでない人間は「人間」の名に値しない p64

 社会性・公共性・公的・政治家・「まじめ」
 ⇔ 社会性や公共性のない・私的・文学者・「ふまじめ」

この単純な切り分けこそ、ルソーが分裂しているように見える理由
観光客あるいはテロリストも、その切り分けで捉えると見えなくなる p65

「観光客の哲学」は、19世紀以降の、まじめな公とふまじめな私を対置させる政治思想への異議申し立て

人間は人間が好きではなく、社会をつくりたくないにもかかわらず、人間は現実には社会をつくる、このことの謎を解くヒントを、一般意志の再読にではなく、観光客のありかたに見出そうと試みるもの p65

観光客について考えることは、近代の標準的な人間観を更新し、新たな人間観、新たな社会観、そして新たな政治観を提示することにつながっている。p65

 
③最善説とそれに対する批判(思想実験としての旅行)

最善説=世界は最善であり、悪の事実にもかかわらず合目的的であり、有限な諸事物の価値は、普遍的全体を実現する手段として肯定されるというテーゼ (ライプニッツ) p67
=この世界に「まちがい」はないとする考え方 p69

対して

ヴォルテール『カンディード』の「最善説」(ライプニッツ)批判
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
=世界は「まちがい」に満ちている

重要なのは、最善説の是非ではなく、その信念が実践に与える影響である。
・ライプニッツは「まちがい」がないと信じたほうがひとは幸せになれると考えた
・ヴォルテールは「まちがい」があると考えなければひとは誠実に生きることはできないと考えた p69

 ヴォルテール『カンディード』 
・旅=「観光」のモチーフ p70
・そこで語られる物語は荒唐無稽なほら話。「二次創作的」なステレオタイプ。だが世界旅行という思考実験を導入することで、世界にはつねにぼくたちの想像を超えた悲惨な現実があるかもしれないという、その可能性一般を突き付けようと試みた

=ダークツーリズムに近い問題意識
=観光は、知識の拡張というより、むしろ想像力の拡張と不可分のものである

 思考実験としての世界旅行の他の例 
・ディドロは世界旅行の仮定を導入することで、人間や社会の本質について、ヨーロッパの常識に囚われない普遍的な視座を獲得しようとした
・レヴィ=ストロースの人類学的視線は、ルソー、ヴォルテールの時代の思考実験の直系の子孫

 
④カント『永遠平和のために』

カント『永遠平和のために』 
永遠平和の設立のためには3つの条件が必要である p74

第1条項:各国家における市民的体制は共和制でなければならない
→カントは共和主義を重視するものの民主主義はむしろ否定している

第2条項:国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである
→まずそれぞれの国が市民の自由を保障した共和国になる
→つぎにそれらの国々が合意のうえに上位の国家連合をつくる

・カントは世界共和国(統一政府)についてその実現を否定していた
・主権国家がみな平和を望まないとしても、結果的に平和を実現してしまうような「消極的な代替物」について、カントは考えようとしていた(ルソーと共通)

第3条項:世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない
・第1,2条項が国家のあり方を問うものだったのに対し、第3条項は社会や個人のあり方に踏み込んでいる。
・普遍的な友好をもたらす条件としての「訪問権」とは
 *国民はたがいの国を自由に訪問しあうことができる
 *たがいに交際を申し出ることができる、すべての人間に属する権利
 *訪問の権利だけを意味し、客人として扱われ歓待される権利は含まない
 *外国人は交際を試みることはできるが、その成功は保障されない p77

「問題とされているのは人間愛ではなく、権利である」

 
⑤カントの第三条項から「観光客の権利」へ

 まとめ カントの永遠平和

→①まずそれぞれの国が市民の自由を保障した共和国になる
→②つぎにそれらの国々が合意のうえに上位の国家連合をつくる
→③さらに「世界市民法」を成立させ、個人が国境を越えて自由に移動できるようにする

 ③は仮想的で異質なものだが「観光の権利」の規定として読めるのではないか?

①→②は「成熟の連鎖の物語」で最善説的

成熟した市民が集まって成熟した国家(共和制)をつくり、成熟した国家が集まって成熟した国際秩序(国家連合)をつくり、その結果として永遠平和が訪れる

しかし、それは必ず成熟していない国(共和的ではない国)は国際秩序から排除してよい、むしろ排除すべきだという発想を呼び寄せる。

⇒国際社会が未成熟なもの「ならずもの国家」を排除し続けるかぎり、その排除された未成熟は、幽霊のように、テロとして回帰し続ける p80

いまの国際政治の軸をなす対立は、国際秩序とその「外部」=ならずものたちの対立
ならずものの国家は、国家としての成熟=国際秩序への参入を拒否しているが、国際社会はその拒否そのものを拒否している
⇒結果、ならずもの国家はますます怒りを深めていく p79

この事態は20世紀後半の人文思想の「他者への寛容」の倫理の説得力を失わせる
「他者への寛容はたしかに重要だが、しかし寛容になるためには相手もあるていど成熟していないと困る」という反論になにも言い返すことができない。

③を観光の権利としてあえて読み替えることで、このジレンマから脱出し、別のしかたで永遠平和への道を考えるヒントを含んでいる。

カントが第3条項の追加で提示しようとしたこと
国家と法が動因となる永遠平和への道とはべつに、個人と「利己心」「商業精神」が動因となる永遠平和へのもうひとつの道があり、この両者が組み合わされなければ永遠平和の実現は不可能だ p80
複数の民族に分かれ、複数の国家意志のもとに置かれた人々は、「利己心」を通じてしか結合できない。「商業精神」こそが各国家を国家連合の設立へと誘う。永遠平和は商業なしにはありえない。p81
 ↓
観光客は、ただ自分の利己心と観光業者の商業精神に導かれて、他国を訪問するだけであるのにかかわらず、その訪問=観光の事実は平和の条件になる。

観光客の亜政治的な可能性
未成熟な「ふわふわした存在」がつくりだす友好の可能性とは?


⑥ヘーゲルの「国家」

国家は市民社会の「理性」にあたるもの
国家とは、事実の産物というより、なによりもまず意識の産物である

ひとは、家族から離れ、市民を経て、最後に国民になることではじめて成熟した精神に到達する。「個々人の最高の義務は国家の成員であることである」
=市民社会から国家への意向が、人間の精神的向上と結びつけられて語られている

人間は自分のことしかわからない、しかし他方でひとりでは生きていけないこの両者に折り合いをつけるのがヘーゲルにとっての「国民になること」

人間の「成熟」のためには、家族の一員であること、市民社会で他者に触れることとは別に、なんらかの上位の共同体に属することが絶対に必要だとヘーゲルは考えた。

「人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。なぜか?
⇒ヘーゲルの解答
人間は国家をつくり、国民になることで、社会をつくりたくなかった未成熟な自分を克服することができるから p92

 
⑦シュミット「友敵理論」 

政治は友と敵の二項対立のうえに成立する p86
政治は無根拠に敵を定める。
政治は、共同体の存続を第一に考え、必要とあらばほかのあらゆる判断を停止する。
政治は、例外状況においては、倫理も経済もすべてを飛び越えて、共同体の存続の身を考慮し、超法規的な判断を下すことができる

ひとは、普遍的な意志を特殊な意志として内面化することで、はじめて精神的に成熟し「人間」となる。その契機は、家族でも市民社会でもなく、国家だけが与えることができる。だから、美や論理や功利の判断とは全く別の水準で、所属先の国家が存在しなければならない。

友敵の区別がなければ人間になることができない。だから国家は必ず複数存在しなければならない。政治は友敵を峻別し、国家の輪郭を明らかにする。その国家を存続させる営みが政治である。

グローバリズムを批判する論者 功利的・経済的・美学的判断をしがちだがシュミットはその類の議論には関わらない 
それは政治の価値を損なうもの p93

 

シュミットは
①グローバリズムを批判 
…それが友敵の区別を抹消し、政治そのものを抹消するから
②自由主義を批判
…国家の必要性を経済や道徳に還元し、その独自の意味(人間が人間であろうとするかぎり、精神の構造から必然的に要請されるものである)を奪い取ってしまうから

国家が存在しなくなったら、政治は存在しなくなる。政治が存在しなくなったら、人間は人間でなくなってしまう。シュミットは人間が人間であるためにグローバリズムを拒否する

 ヘーゲルとシュミットとは別の成熟のメカニズムは?
国家への所属を介さずに、普遍と特殊を重ね合わせるメカニズムは?


⑧コジェーブ「動物」 

人間とは、みずからの存在を賭けて他人の承認を求め、環境を変革し続ける精神的な存在。

誇りを失い、他人の承認も求めず、与えられた環境に自足している存在は、精神的には人間と言えない
=人間の歴史の終わり
=「ポスト歴史」
=人間の「動物」化 p98
               例)アメリカの消費者/日本のオタクたち

⑨アーレント「消費」
「活動」…行為者の固有名性をもとにした言語的で身体的な行為。
互いに顔を曝し、差異を認め合った上でのコミュニケーションであり、必ず他者がおり、公共性に基づくもの。直接、人と人との間で行われる(人と人とを繋ぐ)「人間」に値する行為。

「労働」…他者が存在しない、賃金のためだけに行われる行為
それは私的な経験(私の満足)にとどまり、公共の意識(あなたの満足)につながらない。「労働する動物」p106

労働者はそのまま消費者になる。「消費」はその貨幣で動物的欲求を満たすだけの行為である。消費もまた公共につながらない。人間の生になにも意味をあたえてくれない。p109


⑩人文学にひそむ欲望

シュミット・コジェーブ・アーレントの共通点
人間と人間の生死を賭けた闘争がなくなり、国家と国家の理念を賭けた戦争が解消され、世界がひとつになり消費活動しか存在しなくなった時代における「人間の消失」を問題にしている p101

〇シュミット 
政治を喪失(=自由主義化)した経済的利益だけを追求する人間を批判
〇コジェーブ 
歴史の終焉に現れる動物的な消費者を批判
〇アーレント 
他者が存在しない「労働」とそれにつながる「消費」を批判

彼らはみな、経済の合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するために、古きよき「人間」の定義を復活させようとした。

グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。p109
しかし、この拒否が、グローバリズムが進む21世紀に通用するわけがない。だから人文学そのものを変革する必要がある。それが本書の基礎にある危機意識。p110

 

⑪「観光客の哲学」が乗り越えるべきもの

人間には必ず友と敵がいる。そして国家がある。
対して、動物には友も敵も存在しない。そして国家も存在しない。
この点でふわふわと行動する観光客は「動物」であり、観光は歴史の終わりの申し子。

 「観光客」について考えることで乗り越えたいのは、人文学に存するこの無意識の欲望。
「観光客」は「人間的ではないもの」として人文学が思想の外部に弾き飛ばそうとした
ほぼすべての性格が集っている、20世紀の人文思想全体の敵。

「観光客」から立ち上がる人間の定義はありえないのか? p112

 

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〇第3章 二層構造

 ①二層構造の世界

 ヘーゲルとカントは、個人でも家族でも部族でもなく、
「ネーション」の単位こそが政治と経済と文化の共通の基体と見なした。
=ナショナリズムの時代の世界観

いまの人類社会は、消費という点では、
ほとんどひとつの社会になりつつある

ネーションはいまや経済と文化の基体になっていない。

にもかかわらず、現代もいまだ国境は存在し、ネーションもナショナリズムも存在している

むしろ、グローバリズムが高まるとともに、ナショナリズムもその反動として力を強めている。(イギリスのEU離脱決定、アメリカのトランプ大統領選出、日本における排外主義)

この四半世紀、世界はいま、一方でますますつながり、境界を消しつつあるのに、他方ではますます離れ、境界を再構築しようとしている。

いまは国家連合(ナショナリズム)の時代でも世界国家(グローバリズム)の時代でもなく、そのふたつの理想の分裂の時代である。

・ナショナリズムの時代の世界像
 上半身=理性的な思考の場所(国家=政治)
 下半身=無意識的な欲望の場所(市民社会=経済) p121

カントは、まずはお前の下半身(市民社会に渦巻く非合理な欲望)を制御できるようになってから、国際社会に乗り出してこいと注文をつけた。

カントとヘーゲルは、政治の意識が経済の無意識を抑え込んで国際秩序を形成するのが、人倫のあるべき姿だと考えた。ナショナリズムの時代には、国家と市民社会、政治と経済、公と私のふたつの半身が合わさり、ひとつの実体=ネーションが構成されていた。

21世紀の世界では、その前提がくずれている。

ネーションそのものが壊れたのではなく、ただネーションの統合性が壊れただけである。

21世紀の世界においては、国家と市民社会、政治と経済、思考と欲望は、ナショナリズムとグローバリズムという異質なふたつの原理に導かれ、統合されることなく、それぞれ異なった秩序をつくりあげている。

ナショナリズムとグローバリズムというふたつの秩序原理は、政治と経済のふたつの領域にそれぞれ割り当てられ重なり共存している 
= 二層構造の時代 p123

二層構造の時代においては、政治はいくらいがみあっていても経済はつながり続ける。

経済(=身体/下半身)が、欲望に忠実に、国境を越えすぐにつながってしまうが、政府(=頭/上半身)のほうはその現実に追いつかない

 〇二層構造の世界
 国家 ⇔ 市民社会  政治 ⇔ 経済   思考 ⇔ 欲   
 人間 ⇔ 動物  ナショナリズム ⇔ グローバリズム  


②二層構造の世界における「観光客の哲学」の課題

グローバリズムとナショナリズムをつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか。

市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路はないか
その可能性を探る企て。p127

 
③リバタリアニズムの可能性と限界

リベラリズムは1970年代にコミュニタリアニズムとリバタリアニズムに分解した (世界の二層化に対応)

・コミュニタリアニズム…あらゆる信念は主体が所属する共同体に偶然性に規定される
・リバタリアニズム…社会の基盤はあらゆる信念に関係なく設計されるべきである

 リバタリアニズム 「自由至上主義」「自由尊重主義」
…諸個人の自由を最大限重視し政府による強制を最小限にとどめるべき
…「経済的自由」も含まれるため、国家による富の再配分に慎重・大きな政府に否定的

リベラリズムと対立し、アナーキニズムに接近する

 リバタリアニズムの「最小国家」
…複数の個人がともに生きることを可能にするための、ぎりぎり最低限の調整装置

「複数のユートピアのための枠組み」
徹底して脱政治的な、経済=動物の層に属するメカニズム

リベラルは普遍的な正義と精神の発展図式(ヘーゲル/弁証法)を信じ、コミュニタリアンは信じない。対して、リバタリアニズムは、そのパラダイムを超える理論の可能性を宿す。

かつてナショナリズムは世界精神への上昇の第一歩だった。
しかし世界精神は世界市場に取って代わられた。
いまのナショナリズムは、永遠にナショナリズムのまま普遍化されることがない。

リベラリズムは普遍的な正義を信じ、他者への寛容を信じたが、急速に影響力を失った
リバタリアンには動物の快楽しかない
コミュニタリアンには共同体の善しかない

このままでは、どこにも普遍も他者も現れない 直面する思想的困難

 
④ネグリとハート「帝国」

 「観光客の哲学」とは
・政治の外部から立ち上がる政治についての哲学
・動物と欲望から立ち上がる公共性についての哲学
・グローバリズムが可能にする新たな他者についての哲学 p133

⇒ネグリとハートの「マルチチュード」の概念に適切な変更を加えることで、観光客の概念に生まれ変わる

 ネグリとハート『帝国』2003年、世界中でベストセラー
…グローバル化が進む世界「帝国」においては、国家(ネーション)はもはや経済と文化を自分の管理下に置けない ⇒ 本書の二層構造論と親和性が高い

「国民国家の体制」=ナショナリズム 
「帝国の体制」=グローバリズム  2つを対置

グローバリゼーションは、おもに経済的な現象とみなされており、たとえそれが政治的な観点からとらえられる場合でも、国民国家に基づく政治や国民主権に対する単なる脅威として考えられることが多い。

しかし、私たちがグローバル化の渦中で目の当たりにしているのは、新しい政治秩序、新しい主権の形態である。これまでの人文思想が伝統的に政治的思考から排除してきたものこそがつくりだす政治的秩序である。動物=グローバルの層こそが新しい政治をつくる。その政治は国民国家と関わらない。国民国家と関わらない新しい政治がある。

ネグリとハートは、グローバル化そのものが生み出す秩序を「帝国」と呼んだ。

 ⑤権力形態を2つの体制の移行ではなく共存として捉える

ネグリたちは「国民国家の体制」から「帝国の体制」への移行について考えた。しかし、本書はその両体制の共存について考えている p136

国民国家=規律訓練(権力者が人民に強制・抑制する「規律社会」)

人間を人間として扱う体制 
規律訓練の徹底によって人間を人間にする
↓(移行)
帝国=生権力 人間を動物のように管理する権力
(自由意志を尊重しながらも権力者の目的どおりに対象者を動かす「管理社会」)

 「規律」と「管理」は二項対立的に捉えられているが、互いに排他的ではなく、むしろ相補的であって、同時に作動しうる

個別の場では人間として扱われると同時に、統計の対象としては動物のように扱われるという矛盾(個と統計のあいだの厄介な関係)

例)女性個人を固有の存在、人間として扱う場合、「子どもを産め」とは言えない
女性の全体を顔のない群れとして、動物として扱えば、ある数の女性は「子どもを産むべき」と言える 

ぼくたちは、人間であるとともに動物としても生きている 
=両義的な存在
=世界の二層構造 p141

ぼくたちは、人間でありながら動物のように消費することを求められ、同時に動物でありながら人間のように政治について語ることを強いられている。ぼくたちは、ナショナリズムの時代に生きているのでもなければ、グローバリズムの時代に生きているのでもない。ふたつの時代に同時に生きているのだ。 p190

⑥ネグリとハート「マルチチュード」の可能性と限界

マルチチュード もとは「多数性」「衆愚」(ネグリとハート) 
帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動(対抗帝国)
反体制運動・市民運動(担い手は多数の市民やNGO)を捉え直す概念。
グローバルに広がった資本主義を拒否せずむしろ利用する。
国境を越えたネットワーク上のゲリラ的な連帯(自己組織化)

⇒アラブの春・オキュパイ運動・日本の反原発デモや国会前抗議

ソーシャルネットワークによる民衆の動員の現実化
マルチチュードは、「政治的なもの」と「社会的なもの」を分割しない

私的な生を起点とする公共の政治 
=「観光客の哲学」に限りなく近い p144

しかし、マルチチュードは現実の政治とどのように結びつくのかという戦略論がない

ネットワークの力を信じればよい、愛があればよい(神秘主義的)
そうすれば、生政治の自己組織化でなんとかなる
⇒都合のよい運動論だからこそ支持された(ロマン主義的な自己満足を呼び寄せる)

ネグリとハートの「マルチチュード」の弱点
(1)「一元論」であること 
マルチチュードが、帝国の内部で、帝国自身の原理から生み出される反作用だと考えられており、そのことによって自己循環的構図に陥り、運動論を曖昧にしている
(2) 否定神学的であること 
連帯の事実そのものが連帯に根拠と力を与える
本来は存在するはずのない連帯が、その連帯の不可能性こそを媒介としてつくりだされているために、長期的には各闘争の弱体化・空無化を招く


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 〇第4章 郵便的マルチチュードへ

リベラリズムによる普遍主義のプログラムが崩れ落ちる時代 p154

・自由だが孤独な誇りなき個人=動物 として生きるか
・仲間はいて誇りもあるが結局は国家に仕える国民=人間 として生きるか

どちらにしても普遍的な世界市民への道が閉ざされている

弁証法的上昇(ヘーゲル)とは別のしかたで世界市民への道を開くために、観光客の道が必要


①郵便的マルチチュード

マルチチュードの克服すべき2つの弱点 p155
1 帝国内で自然に生み出される反作用として想像されるのではなく、なんらかの生成のメカニズムとともに示される概念でなくてはならない
2 ロマン主義的な否定神学的原理に頼らず、別のかたちで連帯をつくりだすものでなくてはならない

郵便=存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗(=誤配)の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼす

否定神学…神は存在しないがゆえに存在する
郵便的思考…神はとりあえず存在しないが、現実にはさまざまな失敗があるがゆえに存在しているように見えるし、またそのかぎりでは現実に存在するかのような効果を及ぼす

否定神学…連帯しないことによる連帯
郵便的思考…たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまうような、錯覚の集積がつくる連帯

観光客を郵便的な存在と見なすということは、それについてヘーゲル的弁証法を逃れる存在として捉えるということを意味する。ヘーゲル的思考では捉えられない秩序(二重構造)をもつ現代社会では、その存在が逆に重要になる。

観光の本質は情報の誤配にある p159
誤配こそが新たな理解やコミュニケーションにつながる それが観光の魅力

観光客=郵便的マルチチュードのコミュニケーションは、偶然に開かれている
観光客は、連帯はしないが、そのかわりたまたま出会ったひとと言葉を交わす
デモには敵がおり、友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にある p160


②ワッツとストロガッツ「スモールワールド」

マルチチュードの概念を神秘主義的でロマン主義的なものに戻してしまわないために、誤配の発生機序と力学を記述する、ある数学的モデル(ネットワーク理論)を提示する p161

 「つなぎかえ」「近道」
人間は仲間=三角形をつくる。仲間をいくつも重ねることで共同体をつくる。けれどもそれだけでは、人間の世界はひとつの社会にまとまることがなく、無数のばらばらの仲間=三角形に分解したまま。⇒社会が生まれるためには多数の三角形が短い距離で結ばれなければならない。

「つなぎかえ」が生み出す「近道」が、人々を近くの三角形から遠くの三角形へと連れ出し、他者との出会いに誘う。p187 
共同体を社会(市民社会)へと変える機能 p188

人間社会にダイナミズムを与えるのは、他者の絶対的排除でも、他者への完全な開放性でもなく、他者に開かれる「確率」である。 「確率」とは、新たな接続先(他者との出会い)を偶然に委ねること。 
= コミュニケーションの誤配(デリダ)に相当 p170

 
③バラバシとアルバート「スケールフリー」

ネットワークにおける「優先的選択」は新たなつなぎかえ p188 
友人間の対等な交換関係ではなく、一方的選好の表現に変化 
例 FB, Twitter, Instagram

⇒圧倒的不平等の世界 p189
富める者はますます富み、友人の多いものはますます多くの友人を集め、評価の高いものはますます評価を集め、それゆえに貧しいものはますます貧しくなる

しかし、これは富めるものが貧しいものを「搾取」しているのではない。
ネットワークの参加者ひとりひとりの選択が自然に、しかも偶然に基づいてつくりだしている。


④スモールワールドとスケールフリーを同時に経験すること

ドゥルーズとガタリの「ツリー」と「リゾーム」
・『帝国』では、国民国家がツリー、帝国/マルチチュードがリゾームに対応している
・「リゾーム」はあいまいで、印象論(イメージ)の域を出ない。
・ツリーとリゾームの概念は重ね合わせること(二層化)ができるように作られていない

ぼくたち人間は、同じ社会をまえにしてそこにスモールワールド性とスケールフリー性を同時に経験している。

例)Twitterで無名のユーザーが著名人にリプライを送り、たまたま返信が返ってきた場合、リプライは一対一のコミュニケーションであると同時に、無数のリプライのひとつでしかない。

他者を前にしたとき、一対一で向かい合う対等な人間だと感じるときと、富や権力のあまりの格差に圧倒されるだけのときがある。20世紀の人文系の思想家たちは前者の関係こそが人間本来のありかたであり、後者では「人間の条件」がはく奪されていると考えた

けれども、ほんとうはその両者はひとつの関係のふたつの表現であり、つねに同時に感覚されている。これは数学的知見の人文的解釈。

スモールワールドなかたちとスケールフリーな次数分布を私たちが同時に経験しているという、ネットワークの構造から数学的に導き出された秩序は、

「人間の条件」とその外部   
政治とその外部   
国民国家と帝国   
ナショナリズムとグローバリズム   
規律訓練と生権力
コミュニタリアンとリバタリアン   
人間と動物

ぼくたちが、これらふたつの時代に同時に生きている、これらが同じひとつの社会的実体のふたつの権力論的解釈として同時に生成する経験に対応している。

動物たちの真理を二世紀にわたって政治と哲学的思考の外部に放逐してきたヘーゲルのパラダイムは、交通や情報の技術(統計的真理を見るための技術)がその段階に達せず、まだ多くの人々にスモールワールドの秩序しか見えていなかった時代の社会思想にすぎなかったのではないか。 p185

 
⑤新たなマルチチュードへ

帝国の体制をスケールフリーが生み出す秩序として捉え直し、スモールワールドの秩序との共存を説く本書の提案は、マルチチュードの発生についてまったく異なった説明を可能にする。

新たなマルチチュードが取る戦略についても、信仰告白に陥らない具体的な指針を与えてくれる。その指針こそが、本書がここまで目指してきた、観光客の哲学を支える革新的な洞察であり、本書の結論である p186

新たなマルチチュードは、リゾーム=帝国そのものが生み出したにもかかわらずその秩序を内部から切り崩すといった、正体不明の自己言及的な否定作用を名指す魔法の言葉ではない。

観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモールワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケールフリーの秩序に回収される手前で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者。 p186

 
⑥誤配を演じ直すこと

ネットワーク理論は、社会の起源をめぐる「神話」であり物語である p187-189

硬直した格子グラフ ⇒ スモールワールドグラフ ⇒ スケールフリー

二層構造の時代に、批判や抵抗の場所はどこにあるのだろうか。
いま目の前の「この世界」への違和感を表明できる場所は、どこにあるのだろうか。

帝国の体制はけっして国民国家の体制と対立するものではなく、むしろ国民国家を生み出した契機そのもの、すなわり、スモールワールドの秩序を可能にしたつなぎかえ=誤配そのものが変質し、偶然性を失い、組織化されることによって生み出される

国民国家と帝国はともに同じ誤配から生まれている。誤配がなければ他者との出会いもないが、逆に格差もない

グローバリズムへの抵抗の新たな場所を、帝国の外部に求めるのでもなければ、帝国の内部に求めるのでもなく、むしろ帝国とその外部とのあいだに、すなわち、スモールワールドとスケールフリーを同時に生成する誤配の空間そのもののなかに位置づけることができるのではないだろうか。誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと、それこそが抵抗の基礎だと考えられないだろうか。これこそがぼくの最後の提案である。 p192

帝国を外部から批判するのでもなく、また内部から脱構築するのでもなく、いわば誤配を演じ直すことを企てる。 誤配を演じ直す = 観光客の原理

出会うはずのないひとに出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずのないことを考え、帝国の体制にふたたび偶然を導き入れ、集中した枝をもういちどつなぎかえ、優先的選択を誤配へと差し戻す(=再誤配)企て。21世紀の新たな連帯。

 
⑦連帯と憐れみ
ローティ「リベラル・アイロニスト」 p194

現代社会の矛盾を積極的に受け入れ、それとともに生きる態度(=アイロニスト)。自分の私的な価値観/良心がたんなる偶然の条件の産物であることを認めつつ、しかしなおその価値観/良心に対して忠実であり続ける。

私的な信念の公共化を認めない。普遍的な価値の存在を認めない。

では普遍的な価値の支えなしに、いったいどのようにして他者と関係を結ぶのか。p196

ローティの答え 「感覚」「想像力」 連帯は共感の力で広がる

⇔批判 
    共感可能性に基づく連帯は、異質な他者の排除を意味するだけではないか

ローティの応答
連帯をつくりだすのは、「あなたは、私が信じ欲することと同じことを信じ欲しますか」という問い(共通の信念や欲望の確認)ではなく、単純に「苦しいですか?」という呼びかけ(偶然的な「細部」への感情移入)なのだ 
=ルソーの「憐れみ」

憐れみこそが社会をつくり、そして社会は不平等をつくる
憐れみは「誤配」に、そして「つなぎかえ」に似ている。

 観光客の哲学とは誤配の哲学なのだ。そして連帯と憐れみの哲学なのだ。 p198

 (第1部は以上)

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