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勉強に対する大人の見立てはだいたい間違っている。

勉強に対する大人の見立てはだいたい間違っていて、それはおそらく自身の学生時代において、勉強に対する認識が間違った大人の影響を受けて形成されたから。多くの人は大人になってもその後遺症の中で生きている。以下

勉強に対する子供の「やる気がない」という親の嘆きは、現在の子供の内面を責める形で表出するが、その時に親が見て見ぬ振りをしているのは、子供がいかなる時間を過ごしてきたかという歴史の問題であり、その歴史には当然親も含まれる。このことに自覚的であれば、勉強しない子供のやる気を一方的に責めるようなことはできない。それは現在の子供のせいにできるような単純な話ではないからだ。
しかしここで厄介なのは親は子供のことを熟知しているからこそ「やる気」がない原因を子供自身に見出し易い点であり、親のこうした理解は子供の精神的支えでもあるし、そういう熟知性に基づいた「やる気がない」分析を間違いと断ずることはできない。要は、親自身を含めた外的要因を先に明らめることなしに子供のせいにすると、子供は身動きが取れなくなるということで、やる気がない理由を子供自身に帰することが常に間違っているわけではない。(2023.9.4)

教室だけでは目の前の子供たち一人一人のことをあまりに狭く捉えてしまうという当たり前の事実を、日々勉強だけを教えている大人たちは深く捉えたほうがいい。教室外の子どもの姿を見ることで、その子の勉強を指導する際のアプローチの幅は広がる。それが子供に立ちどころに好影響を与える保証はないが、この可能性の広がりを生かすことは指導者にとって決定的に重要だ。(2023.8.8)

大人が子供に対して「勉強が遅れている」「勉強についていっていない」と伝えるのは全部間違っている。その子のペースでその子なりにやっているという事実を認められない大人が悪い。これはきれいごとではなくて端的な事実なのに。
十代の死因1位は自殺で、しかも自殺した理由の上位を「学業不振」「進路に関する悩み」が占めている。しかし、これらの見立てはもとは大人が作りだしたわけで、そうやって大人は子供たちを殺してきたわけだ。(2023.7.26)

うちの子勉強しなくて…と勉強をしない子供に業を煮やしている親の隣に座っているのは、勉強どころか生きる気概を失った子供であったりする。なぜそこに気づかないふりをしたまま勉強をやらせようとする?(2023.7.26)

「勉強が苦手」という見立ては雑すぎる。どの子にも、この科目のこの部分はできるとか、こういう別のアプローチでやればできるとか、物事の捉え方自体に独創があるとか、ちゃんと苦手じゃない部分がある。苦手を全体化しないこと。苦手じゃないところを伝える大人がひとりでも近くにいること。(2023.7.26)

当たり前のことをひとつ言うと、勉強は楽しんでやれるようになることよりも楽しくなくてもやれるようになることのほうが大事。(2023.1.16)

勉強を習慣化してルーティンでできるようになるのは素晴らしいけど、そのやり方では「ある程度」しか成績は伸びない。成績を伸ばしたいなら、過剰に、過激にやる時期がどうしても必要。(2022.11.11)

「勉強することの大きな意味のひとつは、それを通してあなたが親をはじめとする身近な大人の思考の影響から距離を取ることができる点です」(『君は君の人生の主役になれ』)について、先日の読書会で、勉強を通して自分の生育環境になかった言葉を手に入れて親と距離を取ることは、必ずしも親を「捨てる」ことじゃなくて、むしろそういう過程を通して初めて発見できる親の姿があるのではという話になったのがとても印象的だった。距離が近すぎて包まれたままでは見えないことの方が多い。(2023.7.17)




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