地球上の命の中での人がもってるもの
おはようございます。今日は昨日の続編です
昨晩、命についてめぐらしたことを。。
昨日のはこちらを
その最古の文書が生まれる前に
生物の壮大な命の連鎖があってその中の一部として人類が生まれ
そして最古の文書古事記が生まれてたということ。
古事記とその古事記を表した人間は、小さく、自然の一部である
だが人間だからこそ、命の連鎖を古事記として表現でき、
人間は、人間にしかない方法で、言葉という稀有なツールで
口伝、書物というツールを活用し
命の連鎖を表現するまれで壮大な生き物だということを感じています。
今、私の中で、古事記と命の連鎖が、つながる深い気づきとして
私自身が古事記のお話会を、聴くという貴重な機会を頂いたからなんですが
その方がお伝えしてくれた内容の言葉で私が響いた言葉を。
私は、この言葉を聴いて以下を感じました。
私が今まで表現している、命の連鎖
亡き父の生き方が私の中に生きていること
さかのぼるとするとそれが日本人の生き方であり国民性につながる
古事記とリンクする事などをお伝えしました。
ですがそれもほんの小さな一部になる、
壮大な生物の命の連鎖の中で
命をいただいている人間の命の連鎖なんだという、
わかってたけど、
忘れている大切なことも、再認識しました。
その中でも人間の特性として、上記の言葉、
その能力を通して、他の生物にはない壮大なことを展開している。
「哲学をしたとき、人間となる。人間の特異性」
人間はその哲学をする能力を持っているけど
自然の中では葦のようにはかない植物のような一部であるのだなと。
そんなことを考えていると有名な言葉が思い浮かびました。
「人間は考える葦である。」
パスカルの言葉です。
ちなみにパスカルの言葉については続きがあるそうです。
昨日考えをめぐらして調べてるとき出会いました。
ちなみに古事記の中で、人間は次のようにも表現されています。
これも偶然なのでしょうか。
人間を青人草と表現しています。
伊弉諾尊が、黄泉の国から逃げ帰る途中、追ってきた亡者たちに魔よけの呪力を持つ桃の実を投げつけることによって命拾いするのですが、その場面が次のように語られているんです。
人間は一本の草のように、小さく、はかないものであるけど
哲学をして、
古事記を表現し、
関係性をつくり、社会をつくり、科学は発展し
そして今携わっている医療も年々発展しました。
人間とはすごいと思います。
ですが、自然の中での一本の葦のようにはかない
植物と同じく、はかなく、支えられている一部であること
それを忘れず感謝をもって、日々
謙虚に哲学をして生きていくこと
そこに壮大な人間としての命の連鎖と同じく
生命の連鎖があるのだなと認識した朝です。
古事記のことを、今でも様々な形で、日本人は表現しています。
神話、演劇、お話会、勉強会。。など。
それは自分のルーツを深堀することになるし
存在の価値を再確認することになる。
そこに古事記があって、そこに様々な視点で解釈をしていく
その解釈は様々でよく、
皆が古事記を日本人として語る事、きっかけに集まる事を
続けていくことが必要なんだなと思います。
それが日本人の命の連鎖につながるんだなと。
今日は、命の連鎖から、生命の連鎖へ少し、展開が広がりつつ、
古事記をきっかけに、壮大な中の人間の存在を感じました。
外に出ればもう春で、生命の息吹を感じます。
今日もお日様がのぼり、雨がふることを
視る事ができて、
感謝することができる私と
あなたにありがとう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?