好きなものは好きと言える気持ち 抱き締めてたい

人それぞれに好きなものが1つ以上はあると思います。でもそれは堂々と人に言えるものばかりでしょうか?好きという気持ちを相手に素直に伝えることはできますでしょうか?コミュニケーション力のあるなしは関係ない話です。だって熱量があれば言葉は拙くても相手に伝えることはできますから。

我々は物事を見るとき「男」と「女」のフィルターをかけることがあったりします。男だからこういう趣味を、女だからこういう趣味を、というように決めつけてしまっている部分が誰にでも少なからずあるのかもしれません。
その偏見とも言えるものはこの世からなくなるかと聞かれたら難しいと答えると思います。実現しないとは言いませんが、男女それぞれのイメージが固まってしまっているのがネックになるでしょう。「当たり前」を変えるって一人ではどうしようもない相当な力が必要になり、社会の性質が大きく変わってしまうことを覚悟する必要があると思います。

でも自分の「好きという気持ち」に嘘をつかなければいけないのでしょうか?
偏見や世間的なイメージを恐れてしまって正直になれず、自分の気持ちに嘘をついてしまう人が一定数いるはずです。
確かに人は大なり小なりある「人の目」を気にしてしまいます。
自分もそれで生きづらさを感じることが正直あります。
全く気にしない人にとってはくだらないと思うことかもしれません。
が、私も含め、気にする人はめっちゃ気にしてしまうんです。(一番最初に投稿したnoteに詳しく書いてあるのでぜひ)
だから大っぴらに言うのも難しいなとも思うのです。

もし聞かれたら、聞かなければいけない場合はどうしたらいいのか?となりますよね。
どうするのが正解かと言われたら時と場合によるとしか言いようがないです。
ただ、正解ではなく最適と言えるものがあるのなら「適度に流す、適度に話すこと」ではないでしょうか。
相手のことに興味を持ちつつも深く興味を持たない、いっぱい話したいけど控えめに、ちょうどいいくらいが互いにどこか傷ついたりモヤモヤする必要がないと思います。多分、おそらく、これが最適なのかもしれません。(結局場合と相手によるんだろうとも思いますが。。。)

考えることを放棄したようになりますが、人間関係は難しい。
人の目を気にする人にとってはもっとだ。

タイトルの『好きなものは好きと言える気持ち 抱きしめてたい』は知っている方も多いとは思いますが、槇原敬之さんの名曲「どんなときも。」から取らせていただきました。
歌詞を読んでみると名言だらけですが、この一節は特に印象に残っているので今回のnoteの題材にしました。この一言の重さはかなり重いです。当たり前と言えることが当たり前にできていない現状を嘆いて槇原さんは歌にさっきの一節を入れたのだと思っています。


「誰が何を好きになってもいいじゃない、性別なんて関係ない。」
これに尽きます。
一人一人が相手の気持ちを受け入れることから変わるのでしょう。
ただ、社会的に見て問題がある、周りに迷惑をかけるようなものを言ってきた場合は全力で止めてあげてください。

どうか「偏見」「イメージ」に囚われすぎない世の中に少しずつでもなって欲しいものです。

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