4.自分の正体が概念だとしたら「自分が自分じゃない感覚」はどう解釈しようか
よく分からんタイトルですまんね。こんな内容で書きます。
自分の正体について考えている
とある診断で定番の質問として、「自分が自分じゃない感覚がありますか?」という質問がある。私はこの答えが分からない。
ま、分からないということは日常生活に支障を来していないということだし、「ありません」が答えになるだろうけれど。
別に常日頃「私は私だ!」と思って生活はしていない。だから改めて言われると分からない。
鏡を見て「この体に自分が入っている」と考えて怖くなったことはあるかな。でも毎秒鏡を見て生活しているわけではないし、意識しなければ気持ち悪さも込み上げてこないので、この症状が日常生活に支障を来すことはない。普通に鏡も使える。
そもそも「自分が自分じゃない感覚」の「自分」って何を指しているんだろう。
私は「私」とは概念であると思っている
自分で自分の姿は普通見られない。私の考える「私」には輪郭がない。私は「今の私の姿」を脳内で補完しながら生活している。
だから「『私』とは概念である」と思う。
以前書いた記事の、この部分に関連するかもしれない。
これが私の考えだ。私の脳内にあるものが私にとっての現実世界であり、私にとっての正しい姿。
これは変わった考え方なのだろうか。それともごく普通?
(ちょっとややこしいのは、他人から見たら実体が「私の正しい姿」になり得ることだろうか。)
「自分が自分じゃない感覚」の話に戻ろう
「自分が自分じゃない感覚」には2回「自分」という言葉が出てくるけれど、これらは少し違うモノを指しているよね。
2個目の「自分」は根本にある自分というか、まさに「自己」「自我」みたいなものだと思う――うまく説明できない。伝わってほしい。
さて、じゃあ1個目はなんだ?
仮にそれが実体を指すのであれば、私はごく部分的に「自分が自分じゃない感覚」に陥っているのかな。
自分の本体は中身だと思っているし、鏡を見て「これが自分だ」と思うと違和感があるし。
ならば、自分とは概念であるという私の考えが正しかったらどうなるだろう。「自分という概念が自分じゃない感覚」?
抽象的で少し理解しにくいな。メタ認知というものがあるけど、あれが行き過ぎた感じだろうか。
うーん。
もしもこの「概念」を「アイデンティティ」と置き換えたらどうなるだろう?
「想定している自分(=アイデンティティ)と今の自分は别人だ」という感覚になるのかな。「私はこんなことをする/考える人じゃないのに!」という感じ?
一時的にこれに近い状態になったことはある。誰かに乗っ取られているような感覚だった(今は多分治っていると思う)。
あれが「自分が自分じゃない感覚」と呼ぶものだったのだろうか。
分からん。
あとがき
結論は出ないね。答えを知ってたら悩んでないもんな。
自分が自分じゃない感覚ってよく「世界が白黒」「テレビを見ているよう」「他人の体を操作している感じ」みたいに表現される気がするけど、今回考察した中ではどれが近いだろう。どれも近くなくて、全部的外れの考察だったかな。
結局こういうのはちゃんと経験しないと理解できないのかもしれない。
さて、ここまでお読みくださりありがとうございました。
良い一日を。
2024/01/18
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