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すべり坂は止められるのか~安楽死制度を議論するための手引き13

論点:いわゆる「すべり坂」を予防することは可能か?

 前回の記事では、認知症のある方に対し、健常者の論理で回っているこの世界の「常識」を当てはめて判断するのは、いわゆる「すべり坂」を下りかけているように思えてなりません、という話をしました。

 これは、オランダだけの問題ではなく、安楽死制度を許容した他の国でも同様で、制度が定められた当時に想定していた安楽死対象者よりも幅広い方へその権利が与えられるようになっています。
 これがまさに「安楽死制度をひとたび認めてしまうと、最初は肉体的苦痛に苛まれる終末期患者のみ、としていた対象が、あれよあれよと精神的苦痛や小児、終末期ではない方々にまで拡大していく」という「すべり坂現象」です。当初、オランダもその他の諸外国も「すべり坂」なんてことは起こらない、と嘯いていたにも関わらず、少なくとも遠い国である日本から眺める立場では、どう見ても彼らは坂をずるずると下って行っています。
 しかも恐ろしいのは、その国の方々が「下って行っている」ということに無自覚なのではないか?と見えることです。もう少し正確に言えば、実際にはすべり坂を下って行っているにも関わらず、そこにもっともらしい理由をつけて「これはすべり坂ではない」と言い張っているだけのように見えます。

「すべり坂ではない」という反論では、「こういったケースは本国において、社会的に十分な議論を重ねたうえでの結末だ。裁判でも何度も審議された。そもそも制度とは、国民が求めるものに従って常にアップデートされるべきだ。それは安楽死制度だって例外ではない」などと言うでしょうか。
 しかし、「国民が求めている」「十分な議論と法的検討を重ねた」「改悪ではなく改善だ」という見え方は否定しないまでも、それと「すべり坂かどうか」は別の枠で考えるべきです。「すべり坂」が、先に示したように「ひとたび安楽死制度を認めると、その対象者がどんどんと拡大していく」と定義されるのであれば、諸外国はどんなに言い訳をしたところで、確実にすべり坂を下っています。
 それならいっそのこと、「安楽死制度を認めると、(少なくとも現状のシステムの中では)すべり坂を下っていくことを防ぐことはできない」と開き直ってくれた方が、日本を含めた他の国々でも安楽死制度を議論・設計するときの役に立つのですがね・・・。

そもそも、なぜ「すべり坂」を下ってしまうのか

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