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#19 大沢たかおと消えたホステス

「お疲れ~~!ねえ、今日は何のパン食べる?」

出勤前、いつも私にパンを与えてくれる女性がいた。

彼女の名は、飯島 ラン(いいじまらん)。
「AV女優みたいな名前だな」と酔っぱらった常連客によく言われていた。もちろん源氏名だ。

私は大学3年生の時、家庭の事情により中洲のスナックで週に4日ほどアルバイトをしていた。
大学が終わると急いで西鉄バスに乗りこみ、50分ほど揺られて西中洲のバス停で降りる。

飲み屋街の地に降り立つと、そこから私は競歩ばりのスピードで歩くのが日課だった。
父と同じ歳くらいの男性と派手なメイクに髪を盛った薄着のホステスのカップルを、3組ほど追い抜く。
そして案内所前に立って雑談しているホスト達の、GucciやHermèsのベルトバックルあたりに視線を落とし、目の前を0.5秒で通り抜ける。

終始早足の理由は半分息を止めているから。

当時「夜の中洲」という場所が苦手だった。
男女の色んな香水が混じっていて性的な匂いがする。
さらに道には無数の煙草の吸殻や、今朝方に生まれたであろう嘔吐物の跡もあり、匂いだけでなく足元にも注意して歩かねばならなかった。
「お店に到着すれば、思い切り息を吸える」私の頭にはそれしかなかった。

店に着いて呼吸を再開したと同時に、「お疲れ~」とランさんが迎えてくれる。私はこの声を聴くと、夜の中洲から逃げきった気分になれた。

おそらく当時28歳だった「飯島 ラン」。
スタイルが良くミニスカートのタイトワンピを着こなし、長い黒髪を毛先のほうだけ巻いている。香水はつけていなかったが、いつも唇にはたっぷりグロスを塗っていて、そのグロスの香りが私は嫌いじゃなかった。
顔立ちについては、ランさん自身が「ゲイバーのママに『トミーズ雅に似てるわね、アンタ』といじられた!」なんて話をしていたから、とびきりの美人ではなかったと思う。

大学から直で中洲に来る私に「お腹空いたでしょ。空きっ腹にお酒は悪酔いするよ」と、いつも美味しいパンを2個ほどくれた。

ランさんは夜の仕事がメインではなく、昼間は普通の会社員をしていた。
なぜ掛け持ちをしているのか聞いたら、介護士になるために資格を取りたくて、その専門学校に行くためにお金を貯めているのだという。

私は「なるほど、こんな優しい人だから絶対素敵な介護士になれるんだろうな」なんて、呑気にツナマヨソーセージパンにかじりついていた。

ランさんは他の先輩ホステスと違って、お店のルールやお客様のボトルを覚えなさい、などということを一切言わない。
お客さんに営業メールを送りながら、ただただ私と「女の子同士のおしゃべり」を楽しんでいるようだった。もちろん私も、ランさんとのパンタイムが大切な時間になっていった。

いつものようにパンを食べていたある日、ランさんが突然「ねえ、大沢たかおがさ、むっちゃ私に嫉妬するっちゃん」と言い出した。

一瞬驚いたが、もちろん大沢たかおは本物ではない。

ランさんが通っているホストクラブに大沢たかお似のホストがいて、ランさんはいつもその彼を指名していたという。しかしある日、大沢たかおが他の席についていたので、下っ端ホストを指名した。すると大沢たかおがヤキモチを焼いてランさんと痴話喧嘩になったそう。

私はそれを聞くやいなや「わー、それまずいですよ。まんまと『いいお客さん』になっちゃってるじゃないですか!もーやだあ!ハマらないでくださいよお」と大笑いしながらランさんの肩を叩いた。
しかしランさんは「ちがうよ、本当にあれは怒ってた」と真剣な目で私の言葉を一蹴した。


それから1ヶ月くらい経ったころ、ランさんが突然お店に来なくなった。
理由はちゃんと聞いてないが「ウリカケが払えなくなってトンダ」というようなことを、常連客同士で話していたのが聞こえた。
そして「ホストにはまってツケが払えなくなった」とも言っていた。

私はランさんのメールアドレスを知っていたが、なんだか連絡してはいけない気がして、メッセージを送ることができなかった。


推しのコンサート会場に向かうため、3年ぶりにバスに乗った。
左側の前から3番目の席に座る。

私は39歳にして初めて歌い手グループの推しができた。
だからその日は初めて推しに会える日だった。

しっかり仕事の休みをとって、子どもたちも親に預け、準備万端。
会社の規定は無視して、髪やネイルも推しの担当カラーである、赤にした。

バスは都市高速を降りて昭和通りを走っている。もうすぐ中洲に到着する。

そこで私は思い出した。

左側の前から3番目の席。あのときも、この席でランさんを見た。
たしか、私が大学を卒業する直前の2月の終わりごろだった。

中洲のセブンイレブンから酩酊状態でふらふらに歩いていたランさんの横には、黒い服の男性がいる。私は「ランさん!」とバスの中で小さく声に出していた。

もちろんバスに乗っている私に気づくこともないランさんは、黒服の男性と手を繋ごうとしていた。そこで私はさらに驚いた。

黒い服の男は、大沢たかおだった。

いや、もちろん本物ではないのだが、本物と見間違うくらい、大沢たかおそっくりだったのである。



『ピンポーーン』と、けたたましくバスの停車ボタンが鳴った。

あのときバスから降りて、「ホストなんかに騙されないで!介護士の免許取るんでしょ?今ならまだ間に合うから!」とランさんを大沢たかおから引き剝がしていたら?
ランさんを見かけたあの日から、こんなシナリオが正解だったのかな、と思うことが何度かあった。

しかし現在、あの時と同じ席に座る40歳の私は「そんなシナリオ、演じなくて良かった」とやっと思えた。

夢中になるものがホストであれアイドルであれ何であれ、人の幸せは他人が決めてはいけない。

ランさんの行動は、世の中的には不正解かもしれない。
しかしあの日、大沢たかおと手を繋いで歩いていたランさんは、終始笑っていて本当に幸せそうだった。私に介護士の夢を語っていたときよりも。

今なら「夢中になる」という感情が、歳相応に少しは分かる。
そんなことを考えながら、バッグの中に忍ばせているペンライトを右手でさすった。

そして一瞬でもランさんの特別になれた気がした、あの瞬間を思い出していた。



「実はさ、あたし、本名は加代子なの。ふふ」


























































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