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鼻詰まりにことば詰まり

いくら書いてもいい文章が書けない。
そんな書き終わりの心地。

自分の文章の在り方がたまに嫌になるときがある。

いつも通りことばにして自分の心と向き合っているつもりでも、
それはつもりなわけで、
僕の頭が言葉を知らないだけか、それとも向き合えていないのかのどっちか。

でも書いてみようって意気込んでから、いつも書いているわけではない。

どうしても書きたくなることがあるからふとしたら綴っている。

それはことばとして綺麗にして、
昇華したくなっている衝動の現れだ。

昔から人に相談したり、
頼るのが苦手で、人に直接弱音を吐いたり、
辛いということができなかった。

変なプライドがあるのもそうだし、
あとはそうやって伝えるときに話す自分のことばには、
自分も意図しない棘が生えているのかもしれないという恐怖。

それで直接聴いてくれた相手を傷つけてしまうという恐怖よりも、
自分からそんなことばが生まれてしまうことに対する嫌悪感や拒絶感みたいなものがある。

そのことばでその言い方で、
その時の心をそのまま写したものとして、
ちゃんと伝えられるものになってるのか。

そんな自分への不信感みたいなのが拒否反応を起こしてる。

だから刺々としないように冷静になって綺麗なことばで昇華させてしまいたい。
そのほうが自分の気持ちが落ち着く気がするから。

でもその反面で僕の記したことは、
棘という本当はあった真実を抜き、
丸くなったことばだけを書くという偽りの表現でもあるのだろう。

これがきっと時たま感じる自分の文章に対する心地の悪さでもあるのだが、
かといって、反芻していないことばを書くことはそれはそれですっきりしないし、
なによりも怖い。




都合のいいテレパシーがあればいいなんて思うことが多い。

伝えたいこと、それ自体が伝わって欲しいその形のまま伝わって、伝わって欲しくないことはキャンセルできるようなもの。


でも同時に悩む。
自分は伝えたいことを純度高く伝えたいのか、
それとも伝わった人の感情や理解をコントロールしたいのか。

どちらがより自分の意図する、“伝わること”なのか。

前者は純度が高いぶん紛れもない真実なのだが、
1つの事象においてもその感じ方は十人十色だ。

知覚した自分がそう捉えたから真実がその形になったわけだから。

だから、この場合他者に伝えたとて自分は主観的な感覚ではきっと伝えたいことが伝わってないのかもしれないと感じてしまう気もする。
なぜなら、僕らは共感というものがあってやっとコミュニケーションの一致、意思の疎通を感じるからだ。

後者はどうだ。
その人その人によって伝え方を変える。変えないのは聞いた人にはこう理解してもらいたい、こう感じてもらいたいというゴール。
だから、自分の見た世界、感じたことそのまんまという純度の高い文章では簡単に通用しない。

前者は美術の授業の原画鑑賞をさせるようなものであるなら、
後者はある共通のレベルの理解のためそれぞれに行う個別指導の授業のようなもの。


自分の文章を振り返えってみるとこれについては、
詩や日記を書く時は前者寄りだし、
訴えを書く時は後者寄りだ。


ここで「寄り」と付したのは、先にも書いたように僕が自分が受け入れられることばになるように、そこから棘のようなものを抜いているから。

自分ですら純度の高い表現ができないから。

それも人のためではなく自分のために。


まあまあいい見方をすれば、表現というものにおいてある程度自分の心と読む他者の感じ方のバランスを取ってやっていたみたいだということ。


でも今回示したかったことは、
結局どうやって書いてみても絶対に僕は納得のいく表現はできないということ。

そんな葛藤の中これからも綴ることになるということ。

今日はこれが整理できただけでも良しとしよう。

僕が死んだあとも言葉だけは僕より少し長生きして残り続けるかもしれないから、できるだけ大切に向き合っていこう。

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