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記憶って、。

伊坂幸太郎さんの777(トリプルセブン)という作品を読んだ。この作品は大好きな「殺し屋シリーズ」の4作目。案の定、一気読みだった。

「記憶力がいいのは、否定できません。全部そのせいなんです」

紙野結花はそう告げる。彼女は、あらゆる事を「記憶してしまう」女性なのだ。

「記憶力がいいなんて、良いことじゃないの。トランプの神経衰弱とか強そうだし」

と彼女に出会った女性は口にする。おそらくこの世のほとんど全ての人は同じことを思うだろう。記憶力がいいなんて、羨ましい、と。

子供のころは無邪気に、トランプのカードをひっくり返し、「当たった」「また当たった」「どうしてみんな外れるの?」と優越感を覚えて気分が良かった。が、だんだんとほかの人たちは自分ほど物事を記憶していないことを知るようになり、それと同時に、「忘れる」という能力がいかに必要かに気づくことになった。

「忘れる」ということの重要性。記憶力が良いことは羨ましいように感じるが、嫌な記憶も保持してしまうとなると、話は変わってくる...

ここではそんな繰り返された議論がしたいのではない。
「だんだんとほかの人たちは自分ほど物事を記憶していないことを知るようになり」
という部分に引っかかった。


世の中には記憶力が良い人、悪い人まで沢山存在する。暗記の度合いを0~100%で示すならば、この女性、紙野は100%という極端な例だ。だが、実際世の中に100%記憶を保持できる人はいない。逆もまた然りで、0%、全く記憶できない人もいない。

人は暗記した物事を1時間で約50%、1日後には70%以上を忘れてしまうらしい。有名な忘却曲線の実験である。
ただ、そこには当然個人差がある。身長のようなものだろう。身長が0cmの人はいないし、300cmある人もいない。その中でグラデーションがあるにすぎない。また、身長は数値として明確に示すことができる。そして、見た目で、身長の高低を判断することが出来る。

では、記憶はどうか。客観的な指標はない。
視力のように、「貴方の記憶力は1.5ですね」みたいな検査もなければ、ましてや機械の上に乗ったら体重のように記憶力が表示されるわけでもない。

記憶には感覚記憶、短期記憶、長期記憶という3つの種類があるらしい。さらに細分化することもできる。聴覚からの情報や視覚からの情報によっても覚えやすさは異なるだろう。エピソード記憶は一般的な記憶よりもよく覚える傾向にある。

こうした種々の記憶においても個人差があるはずだ。

個人差はどれほどなのか。自分の暗記量は平均的なのか。あの人はあの時のことをどれほど鮮明に覚えているんだろうか。

ここで、最大の問題が発生する。記憶は、見えないのだ。

AさんとBさんが同じ映画を見たとしても、記憶の度合いは全く違うだろう。同じ場面でも、Aさんはセリフをよく覚えていて、Bさんは映像をよく覚えているかもしれない。映像のまま記憶する人もいれば、エピソードとして記憶する人もいるだろう。
相手の記憶を覗くことはできないから、知る由もないのだ。

この文を読んだ時、ふと、考えた。自分はいったいどれほど記憶力がいいんだろう。

自分が当たり前に覚えていることは相手にとっては当たり前ではないのかもしれない。それこそ、紙野結花は子供のころ、自分が記憶に秀でていることに気付いていなかったのだ。

色覚に関しても同じことが言える。自分が赤色だと思っているこの色は、本当に赤色なのか。生まれた時からその色を赤色だと思って生きてきているが、色覚異常で青色が赤色に見えているのかもしれない。それを判断する術はない。

自分が当たり前のようにフルカラー・音声付き記憶しているあのときの光景は、他人と比べたときに精度が高すぎるのかもしれないし、低すぎるのかもしれない。

視覚や記憶。脳の中の映像は人と比べることができない。そのことに恐ろしくなった。

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