「数」さえもが「思い込み」の産物であるという事実について
何かが思いつきかけているので、
書きながら思考を整理してみようと思います。
思索の旅にお付き合いください。
※
アマゾンの先住民族ピダハンには、
「数」という概念が存在していません。
彼らは、彼ら自身が望んで「数を教えてくれ」と頼んだのに、
ダニエル宣教師が8ヶ月かけて数字を教えても
1から10までを数えられるようにならなかったのです。
これはいったい何を意味しているのか。
彼らは狩猟採集生活をしていますが、
摂ってきた食べ物は全員で平等に分けます。
大きさなどに比較の概念がありません。
それは、そもそも「数」が存在していないことと
何か関係がありあそうです。
※
現代文明を生きる私たちにとって、
「数」とはあまりにも当たり前の存在であって、
それが実際に存在するものであるかのように錯覚しています。
しかし、「数」というのはあくまでも概念であって、
概念である以上、手に触れたり感じたりすることはできません。
みかんが1個、りんごが3個、合わせて値段が450円。
それらは私たちにとって当たりまえの現実のようですが、
実は数であらわしていることのすべては概念なのです。
数そのものが、人間が作り出したものであって、
私たち人類以外には、この宇宙のどこにも、
数字や数を使っている存在はありません。
例えば10進法というものだって、
恐らくは私たちの手の指が
偶然左右合わせて10本だったからによるのであって、
桁が変わっていくとか、そんなことだって概念なのです。
とすると、数学によってこの世のルールを導き出そうとする
理論物理学などは、
いったいなんなのだろうという謎が頭をもたげてきます。
1光年という単位は光が1年間に進む距離です。
光は1年間に約9.5兆キロメートル進みます。
では1メートルとは? 調べてみると、
「地球の赤道と北極点の間の
海抜ゼロにおける子午線弧長を 1/10000000 倍した長さ」
だそうです。
地球のサイズを基準に作ったということです。
そしてこのすべてを表している「数」というものそのものが、
人間の想像上のものなんですね。
※
今、私たちが生きる社会は、ほぼ全てが数字とともにあります。
経済、お金、GDP、時間、何もかもです。
最近、よく聞く言葉に「エビデンスを示せ」というのがありますね。
「証拠、あるいは根拠を出せ」ということです。
それらはほとんど100%に近い確率で「数字」で示されます。
私たちはなんでも数字で判断しようとし、
数字だけが「客観的に正しいもの」と決めているようです。
しかし、その根っこの問題として、
「数」そのものの存在が、実は我々が考えるようなものではない。
そんな気がしているんですね。
例えば「幸せ」を数値化してみましょう、
なんてことを言い出す人がいます。
そういうことをすると、人は無思考になって
「へぇ、これが幸せかぁ」などと考えるようになる。
実際には幸せではないのに、ある数値が高いという理由で
「自分は幸せなんだ」と思ったりしかねない。
けれど、「幸せ」って数値化できるんですかね。
そもそも数というものが、触れることもできない概念なのに。
もし、「数」というものの本当の意味を我々が捉え直すことができたら、
経済や資本主義はその瞬間にこれまでとはちがう姿になるでしょう。
なぜなら、「数」というものも、
「神」や「お金」や「時間」のように、
私たちが脳の中から作り出した架空のものだからです。
※
もちろん、私は科学というものを信用しています。
しかし量子論がそうであるように、科学をつきつめていくと
今まで科学としてイメージしていたものではない姿に
いきつくケースが出てきている。
私たち人類は、
そろそろ発想を大転換しなければいけない時期に
来ているのではないでしょうか。
私たちが数百年にわたって常識だと思っていたことは、
大概が「思い込み」に過ぎません。
こうに決まっていると思っていたものは、
「必ずしもそうではない」のです。
数字で判断することも重要でしょう。
しかし、数字の意義そのものさえ疑ったっていいのです。
私たちの脳は、実はそれくらいの柔軟性は持っているのですから。
ピダハンは私たちとはまったく異なる人間です。
常識がちがい、思考回路がちがいます。
これは「価値観」というようなことではありません。
もっともっと根源的な部分から、私たちとはちがうのです。
けれど彼らはやはり人間なのであって、
そこからわかるのは、私たちだって、
今とは別の人間になれる可能性はあるということなのです。
※
資本主義は人間の性質そのものを表してはいません。
人間は生来、欲望にまみれており、
法と秩序がなければ野蛮な野生動物になってしまうというのも、
そう思わせて、法と秩序に従わせようとした人たちによって広められた
作為的な言説であって、ウソであると言って差し支えないでしょう。
私たちは、自分たち人類の姿さえ、ちゃんと捉えられていないのです。
私たちは「思い込んでいる」ということを自覚すべきです。
様々なことを「当たり前だ」と思い込んでいるのです。
でも、本当はそうではない可能性があるのです。
自分で自分を疑ってみましょう。
ちょっと面倒臭いですが、自分で自分の仮面を外すことに成功したとき、
ものすごく新鮮な驚きに包まれるはずです。
それこそが、人間としての「成長」なのではないでしょうか。
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