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【映画感想】愛にできることはまだあるか

 映画「天気の子」を観た。

 高校1年生の夏に離島から家出し、東京にやってきた帆高。しかし彼の生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。連日雨が降り続ける中、帆高は都会の片隅でひとりの不思議な少女・陽菜と出会う。

映画ナタリーより引用

 新海誠監督による、言わずと知れた話題作。何度か地上波放送もされたと聞いています。皆さんもう観ましたか? 高倉は劇場で一度観て、二度目は今日、U-NEXTで観ました。
 ストーリーは一旦置いておいて、何はともあれ絵力が強い。はじける雨粒のきらめき、日光を反射した瞳、ラブホのジャグジー、色とりどりの花火、お焚き上げの炎、すべてが繊細に、力強く、美しく輝いている。世界ってこんなに綺麗だったっけ。新海誠監督の目には、世界がこんなふうに映っているのだろうか。高倉の世界がこんなふうに輝いて見えないのは、此処が東京じゃないからか、目が腐っているからか。
 雲の切れ間から日光が放射線状に差す現象は「天使の梯子」と呼ばれている。実に詩的な表現だと思っていたが、どうやらこの現象名は日本語独自のものではなく、由来は旧約聖書にあるらしい。英語では「Jacob's ladder」とも呼ばれているそうだ。

 ヤコブの梯子、天使の梯子という名称は、『旧約聖書創世記』28章12節に由来する。この記述では、ヤコブが夢の中で、雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。このことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになった。

Wikipediaより引用

 ヤコブが天使の梯子で天と地上の間を行き来していたように、陽菜もまた天使の梯子から天へ連れ去られる。陽菜を連れ去ったあの天使の梯子は、梯子というよりエレベーターのような、UFOが人間を連れ去るときに使うあの、謎の光のような雰囲気だったのだけれど、ヤコブの天使の梯子も使い方はそんなかんじだったのだろうか。イエス・キリストの弟子と同じ移動手段で連れ去られる陽菜、成程、人知の外にいる感がある。
 陽菜の上から、まるでスポットライトのように日光が降る。ざあざあ降りの雨が止む。雨上がりの澄んだ空気、最後の雨粒が水たまりに落ちて、水面が揺れる。幻のように美しい光景、しかし現実の風景に遠くない。高倉がいるこの世界にも、この風景は存在し得る。
 高倉もまた美しい世界に生きているのだと、新海誠監督の映画は思い出させてくれる。

 そしてストーリーだが、これも「思い出させてくれる」ものだ。具体的には、若かりし頃の視界の狭さとか、守られているという自覚のなさとか、無謀とか、一途とか、そういう頃の自分の姿が帆高越しに立ち上ってくる。
 この先、物語のネタバレを含みます。未鑑賞の方、ネタバレ嫌だよぅの方はどうかご自衛ください。



 帆高の行動について賛否両論あろうが、大人であればあるほど「なんだこの困ったクソガキは……」と苛ついてしまうのではないだろうか。帆高は、子供が大人に、或いは世間にかけ得るであろう迷惑の全てを撒き散らしながら東京を走り回っている。「息苦しくて」などといううすらぼんやりした理由で家出し、近所の友人の家に転がり込む程度なら可愛かったのにまさかのド田舎の島から東京へ繰り出すという無謀を働き、東京では得体の知れないライターのおっさんのもとでアルバイトをはじめ、拾った銃を二発もぶっぱなし、警察から逃げ、線路に侵入し、妄言(真実なのだが、妄言ととられておかしくないファンタジーな言い分)を喚き散らす。

 これは私見だが、大人と子供の違いは「責任」に対する理解の深さだと考えている。子供は責任を弁えていないが、大人は自分が取れる責任の程度を承知している。警察から逃げ回った後の責任が、自分の手に負えるのか否か、子供は勘定しないが、大人は考えて行動する。
 そして、大人は子供を守らなければならない。身内でも他人でも関係ない。これは社会の前提だ。子供が危ないことをしていたら止める。子供が道を踏み外しそうになっていたら手を引いて戻してやる。子供にとってそれが息苦しいことだったとしても、これが大人が子供を守る方法だ。
 とはいえ大人だって、子供の為に何でもかんでもできるわけじゃない。大人は、責任が取れる範囲を承知している。他人様の子供について、責任を追える範囲なんて狭い。できるとしたら、公助に繋げてあげることくらいじゃないだろうか。例えば警察、例えば学校、例えば児童相談所。それらすべての手を振り払って逃げていく帆高に、大人がしてやれることはどんどん減ってゆく。「なんだこの困ったクソガキは……」となってしまう。

 しかし、ふと思い出す。高倉にも帆高の時代があった。
 大人なんて杓子定規で、高倉を名前と成績でしか認識していなくて、誰も高倉自身を見てくれなくて、友人すら高倉の本性を明かすには頼りなくて、息苦しい、そんな時代が確かにあった。高倉には帆高ほどの息苦しさも行動力もなかったから、大人の庇護下からはみ出ることなく安穏と子供を終えることができた。しかし、高倉だってともすれば帆高になり得た。
 帆高の原動力は愛だった。息苦しい世界で、陽菜という生きる理由を得た帆高は水を得た魚で、陽菜の為なら何だってできた。結句警察含めいろんな人を巻き込んだ大騒動を起こすわけだし、それは大変子供的な行動だが、世界のことも社会のことも全部「どうでもいい!」と宣言して、自分が大事なものをなりふり構わず大事にできる衝動を、子供だから、の一言で済ませるには胸につかえるものがある。

 彼は人生を棒に振っちゃってるわけで。そこまでして会いたい人がいるっているのは、私なんかには、なんだか、羨ましい気もしますなあ。

映画「天気の子」より

 例えば帆高が責任を心得た大人だったとしたら、天から指輪が落ちてきたあのタイミングで、陽菜を諦めていたことだろう。「東京を水に沈めないために仕方なかったんだ」とか、もっともらしい言い訳をずっとずっと唱えて、毎夜こみ上げる罪悪感を酒で流す。そういう未来がきっとあった。
 世界の形を変えてでも、帆高は陽菜に会いたかった。この選択は子供だからこそできるもので、大人は子供がそれを選び取れることが、羨ましくて仕方がない。

 ニュースによると、最近、太陽フレアと呼ばれる太陽表面の大爆発が発生したらしい。通信機器やGPSへの影響が懸念されている。
 例えば、高倉が贄になることで太陽フレアによるあらゆる悪影響を防ぐことができるとして、それでも高倉の手を取ってくれる人間がいるだろうか。「GPSなんて狂ったままでいい!」なんて叫ばれてしまったら、それはちょっと、ちょっとだけキュンとするかもしれないが、「いや、駄目だろ」と冷静に突っ込みつつ手を振り払ってしまう自分もいる気がして、うん、やはり帆高と陽菜がちょっと羨ましい。

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