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旅立ち

 「やはり、霊的理想を立てることが大事だなぁ!」

 そう思ったのは、YouTubeで「人生を好転させる「理想」の定め方:日本エドガーケイシーセンター会長 光田秀 先生へインタビュー①」という動画を見てからだった。
 「霊的理想」は、自分の内面と向き合って、魂の声を聞きとって、設定していくもの。

 他者と比べる必要は全くないので、競争社会の、この世的な目標設定とは自ずから異なる。また、個々の性格環境も才能も生活も異なるので、他者と競合することは全くない。自分の霊格をいかに向上させるかという目標であり、理想である。
 生まれる前に設定したシナリオを思い出す、ということになるかもしれない。 
 シナリオってあるんだろうな。
 みんな、この舞台(三次元世界)に出る前に、
 自分で書いたシナリオが・・・・
 記憶喪失しているけど・・・

 ふいに、明治生まれの、古き良き日本人の気質だった、祖父母のことを思い出した。
 祖父母が、自分たちのシナリオを記憶していたのかは不明だが、その死に際は、実に見事だった。祖父は、私が高校一年生のとき、祖母は、大学生2年生の時亡くなった。

 最初に亡くなったのは祖父だった。

 祖父は、酒飲みで、いつもお昼にお酒を飲んでいけど、いたって健康だった。小さい時のエピソードで、私がまったく覚えていないものがある。覚えていないのに、なんでそんなエピソードがあるのかというと、弟が覚えていて、何回か聞かされたからだ。
 祖父がある時、街の中心街に、孫二人(私と弟)をつれて映画に連れていってくれたらしい。あまり孫の面倒を見てくれるタイプではなかったそうで、そういうことは珍しいことだった。
 何の映画だったか、弟も覚えていない。ただ、帰りにバスに乗らず、歩いて帰ってことだけを、弟はしっかり覚えている。弟は、まだ幼かったので、歩くのが苦痛だったに違いない。大人の足でも中心街から家までは40分くらいかかる。私は、弟より少し大きかったのでそれほど苦痛でもなかったのだろう。幼い時から祖母によく山歩きを連れてもらっていたので、足は丈夫だったのかもしれない。
 その時、弟は、もう一つ覚えていることがある。それは祖父が帰りにお酒を飲みながら、帰っていた、ということだ。
 たぶんワンカップ大関!
 今でも恨みがましく言う、「バス代はあのお酒に変わったにちがいない!」と。(笑)

 まぁ、それくらい、お酒が好きだった祖父なので、祖母の手を焼くことはあったと思う。そんな祖父が死ぬ前に、こんなことがあった、と祖母は大学生の私に教えてくれた。
 不思議なこの話を教えてもらったのは、家族の中で私だけだった。
 いつも飲んだくれて、好き勝手やっていた祖父。

 ある時、なんの拍子か、突然、居ずまいを正して、祖母に正座して、対面した。
 祖母は目を丸くしてびっくりした。
 びっくりした祖母をじっと見て、祖父が言った。

 「いままで、よくしてくれて、本当に、本当にありがとうございました。本当にお世話になりました。ありがとうございました。」

 そして、あろうことか、深々と頭を下げ、床に額をつけたままじっとしていた。

 「なにー、どうしたん、おじいちゃん??」とびっくりして祖母が言うと、
頭をあげて、
 「ワハハハハ!」と大笑いして、頭の後ろを手でかいて誤魔化したらしい。

 この一週間後に祖父は亡くなった。

 この話を聞いて、私はなんだか救われた。なぜなら、少し祖父の死に際に対して、忸怩たる思い出があったからだ。
 それは、祖父が祖母に深々と頭をさげた一週間後。

 なんと正月のことだった。
 元旦の晩、私は一人で、二階の部屋にいた。何をしていたのか、覚えていないが、音楽でも聴いていたと思う。
 すると、ドアを「トントン」、とノックする音が聞こえる。
 私は、その時、「なんか嫌だな~」と一瞬思った。
 というのも、祖母は膝が悪いので、二階には上ってこれない。来るとすれば、祖父なのだ。
 ・・・どうせ酔っぱらっているに決まっている。・・・
 ・・・酔っぱらいの相手は、ごめんだ、・・・
という気持ちが「なんか嫌だな~」という気持ちだった。
 その気持ちのまま、ドアを開けると、

 ・・・そこには誰もいなかった。
 おかしいな?

 首を傾けながら、部屋に戻る。しばらくして、お腹がすいたので、カップラーメンを食べに下に降りた。カップラーメンが出来上がるころ、祖母の部屋がなにやら、騒々しくなってきた。祖母が二軒隣りの娘(私から見たら叔母さん)を呼びに行って、なにやら、忙しそうにしていた。
 不届き者だった私は、そのままカップラーメンをすすっていた。何の機転もきかない、食欲に負ける、ダメな高校一年生だった。
 そうこうするうちに、救急車がやってきた。祖父は、高いびきをかいて、そのまま病院でなくなった。亡くなる前に何度か、目を覚まし、「家に帰りたい」とこぼしたそうだ。
 他の家族全員は、スキーに出かけていた。私はもう、スキーなんか行きたくなかったので、留守番していた。
 祖父の命日は1月2日だった。 
 亡くなり方が、実に見事だった。高いびきをかいて、眠るようにしてなくなっていったのだ。心不全だった。
 しかも、一週間前には一番お世話になった祖母に居ずまい正して、深々と頭を下げて、感謝とお別れをつげて、旅立っていった。・・・

 最後のお別れにきた祖父を邪険に思って、ドアを開けてしまった。
 もう少し、思いやりをもってドアを開けていればよかった。
 祖父が亡くなって数年間、少しばかりの罪悪感が残っていた。

 しかし、大学生の時に、祖母から祖父の亡くなる一週間前のエピソードを聞いて、祖父は大往生したのだ、と確信して、自分の罪悪感もすこし薄らいだ。

 祖母はその後、仏壇でいつも「おじいちゃん♡」と話しかけて、お経を唱えていた。
 祖母もその数年後、病院で亡くなった。脳梗塞だった。父によると、亡くなる前に「光の中で、雲の上に浮かんでいた」夢を見たそうだ。

 祖母も祖父も戦争を経験し、大変な時代を生き抜いた。
 多くの知人友人が戦争でなくなったことだろう。家も焼き落ちそうな一歩手前まできた。すぐ隣にまで、焼夷弾の炎が迫ってきていたという。

 今の私に命をつないでくれた。
 感謝するしかない。
 ありがとう。

 彼らはどういうシナリオでこの世に来て、
 どこまで、自分たちの霊的理想を実現して
 旅立っていったのだろうか。

 こうして生まれたからには、
 悔いのない旅立ちをしたいものだ。

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