見出し画像

白銀の太玉

記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている。
    村上春樹「午後の最後の芝生」

はじめに
 エッセイでは語れない内容を小説として、事実を損なうことなく、少し脚色して、私の半生の体験を紡いでいきたいと思います。
 読み物として、楽しんでいただければ幸いです。

能登の姫

 2023年の大晦日に、2024年の新年を迎える火を家の庭で、焚いていた。
二年前にアマゾンで買ったソロ・ストーブで剪定した庭木を燃やしていたのだ。大晦日のその日は実に変な天気だった。晴れかと思えば、雨が降り、風が強くなったかと思えば、晴れ上がる。そんな繰り返しだった。
 バーベキューでもしようかと、弟が買ってきたキャンプ用具で、昼のセッティングをしていたら、雨が降り出し、屋根のあるところに逃げて、細々と火を焚いたりして、過ごした。
夕方から、年越しまで、迎え火を焚こうかと思っていたけど、風も激しくなってきたので、一旦消火した。
 それでも、なんだか、新年のために、火が焚きたくなったので、改めて火を起こし、大晦日を迎えることにした。家族には、呆れられたけども・・
 午前零時、つまり元旦のはじめ。
 空には雲一つない、晴れ上がった夜空に、星々がキラめいていた。
 その火を囲みながら、家族とともに、不思議な音を聞いた。

 ゴォー・ゴォー・ゴォー・・・
 バキバキバキ・・

 大きな炎が燃えるような音と、雷鳴にも近い音、一体何の音なのか?
 家族全員が聞いていたので、空耳ではない。しかし、雷鳴でもなく、近くで火事があるわけでもない。とにかく、今まで聞いたことのない音だった。
 それも空の上方から聞こえてきた。
 私には、龍が乱舞しているようなイメージが湧いた。

 龍の雄たけびか?
 辰年だからか?
 とにかく、その音を聞いて、床に入り、初日の出を見て、いつものように正月らしい日を過ごしていた。

 すると、元旦の16:00過ぎに揺れが起こった。珍しく長く揺れていた。

 その揺れは、能登半島あたりを震源とする地震であることがまもなく分かった。
 地震はあったものの、その後家族でそばを食べにいった。自分たちのところは、そんなに大きな地震じゃなかったし、能登の方の様子もまだわからないけど、大したことはないのではないか、そう思って、家族で出かけた。最近は、元旦でも結構店は開いている。

 サガミがやっているらしいので、そこへ行った。結構混んでいたので、入り口で待つことになった。同じく空きを待っていたお客さんに小さな少女を二人連れて、赤ちゃんを抱いているお母さんがいた。

 その少女の一人は、なぜか、私たち家族に向かって、
「あけましておめでとうございます」とお辞儀した。
少女のお母さんは「そんな知らない人にも挨拶しなくていいのよ。」と少女に言い、「ごめんなさいね。」と気恥ずかしそうに、こちらに会釈した。
 「いえいえ、かわいいですね。」などとそのお母さんと伴侶が世間話をしていた。
 二人の少女は、双子で小学生1年生になったばかりらしい。その頃の子供はホントにかわいい。
 先に待っていたその家族が案内に従って立ち去る時に、

「ありがとうございます。」

と、今度は、私のまん前で、その少女が丁寧に頭をさげた。
私も思わず、「ありがとうございます。」頭をさげた。

 挨拶してくれたのは、双子のうち、こちら側に座っていた子だけで、最後のお礼は私の目をみて、しっかりとしてくれた。他の家族はそのことに気づかなかった。
 なんだか、不思議な気持ちになった。
 食事を終えて、その少女のことを思い返すと、能登の須須神社、奥宮のことを思い出した。
 2022年9月に私は家族で、能登半島の旅行に出かけた。ある民宿の刺身が美味しいと知って、その周辺を観光に行った。福井から、日本海づたいに北上して、神社巡りをしながらの旅だった。主に大国主命ゆかりの神社を巡った。なぜか私は縁あるようなので・・・
 能登のある民宿で美味しい食事をして、見附島にも挨拶しての帰り道。
 ふと、気になる石碑があった。
 「式内 須須神社奥宮」
 なんか、呼び止められたような気がして、急に行きたくなった。車をその近くで止めた。かなり山の上にありそうなので、家族を下に置いて、自分だけ駆けて、山道を登って行った。自分でもかなり衝動的行動だった。直感と行動が同時進行したような感じだった。

 30分ほど登ると、小さな社があった。そこには神様の名前を書かれていた。〇〇命と書かれていたが、私には、それは姫神さまであるように感じた。

 祝詞をあげ、丁重にご挨拶して、その場を去った。山道の途中にも鳥居があり、お別れの挨拶の礼をすると、手を振って見送ってくれる若い少女の神様のイメージが浮かんだ。本当に純で、清らかな、少女のようなイメージだった。

 その少女のイメージと、
サガミで会った少女のイメージがなぜか重なった。

 今回の地震と何か関係があるような気がして‥
 そんな思いを抱いて、寝た夜に、夢を見た。

 ・・・巫女さんのような紅白の衣装を着た、少女のような神さまが現れて、大変悲しんでおられた。
 力が足りず、防ぐことができなかった。大難を小難にはできたけれども。防ぎきれなかった、と大変悲しまれていた。・・・

 この地震は、人工説もある。その根拠は最初の発表の波形にp波がないことだった。最近そういう地震が多い。それは遡ること神戸の地震からだ、福島の地震もしかり、熊本も。
 つまり、DSが起こしている。なんのためか?
いや、それはもう認識不足というものだろう。

 タモリが昨年(2022)に、今年(2023)はどういう年になるでしょう?との問いにこう答えた。
 「新しい戦前・・」

 この発言はかなりの物議を醸しだしたので、記憶している方も多いだろう。タモリは認識していたのだろう。「新しい戦争」がはじまることを・・・
 私に言わせれば、もうその「新しい戦争」は始まっている。ワクチンという名のミサイル攻撃も受けている。ただ、気づかない人が多いだけだ。それがミサイルであることを・・
 第二次世界大戦中だって、初めてミサイルが飛んできたとき、それを認識できた庶民はいないだろう。大きな鳥かと思ったかもしれない。実際、日本では港にやってきた魚雷をクジラと勘違いした漁民はいたのだ。
 神さまが「力が足りなかった」と悲しまれるということは、神さま由来の、つまり、自然由来の地震ではないということだろう。
 今年はいよいよ、「開戦」が庶民にも明らかになる年かもしれない。

 しかし、私の戦いは先んずること16年前に始まっていた。2008年に起こった霊戦(霊的戦争)を中心に、この物語は形成されている。その微動は2007年あたりから始まった。

白銀の太玉

どこの景色だろうか。
暗い森があった。
先が三角のような形で狭まっているような地形の森だった。
その森の先から光の玉が昇っていった。
太陽なのだろうか。
でも、すこしちがう。
太陽よりも大きく、白銀の光を放っていた。
光はあたり一面を照らした。
光は私の体の隅々を内から照らした。
私は光と一体となった。
原始の光。
太古の昔より存在し、今もなお照らし続ける。
人類が存在する遥か以前から輝きつづけている。
宇宙の輝き。
私はその光に満たされ、涙した。

能登半島地震2007年

それは、2007年の3月25日のことだった。

 ん・・?なんだか、揺れている。地震か?・・私はまどろみ状態から目覚めた。

 あの、白銀の玉はなんだったのだろうか?どうしても地震と関係があるような気がした。私はヨガの屍のポーズで、瞑想というか、寝る寸前というか、とにかくリラックスしてまどろんでいた。
 白銀の玉が浮かび上がる、その夢の光景の直後の地震の揺れで目が覚めた。

 TVの情報で確認すると、時間は9時42分ごろ、震源地は能登半島、震度は6強だった。

 翌日の新聞報道では、マグネチュード6.9、175人怪我、一人死亡、建物損壊488件、と伝えていた。

 あとで知ったが、自分は頭を震源地の方角にむけて寝ていた。地震はある程度、時差をともなって、周辺に揺れ伝えるから、距離的に考えて、私がまどろみの中でみた、白銀の玉が浮かび上がったのと、地震の発生はほぼ同時だったように思える。

 ただ、その時は、なんとなく不思議な気持ちで、目が覚めただけだった。なぜ、泣けたのかも不明だった。でも、悪いことではない、むしろ、めでたいことのようだ、と直感した。日曜日だったので、のんびりとブランチを食べて、散歩がてらに、駅前の本屋に向かった。春分をすぎた快晴の日は、風はまだ寒いが、歩いていくのは気持ちがいい。土手沿いの道をあるいて、市内にむかう道に降りて、市内駅前の書店に入った。
 書店で、表紙をみながら、散策していると、ある雑誌風の本があった。パラパラとめくっていると、大国主命のところが目に入ってきた。

 「オオクニヌシは大変女好きの神で、他にもたくさんの女神と結婚した。正妻であったスセリビメにはそれが面白くなく、他の女性のところへ行こうとするオオクニヌシにやきもちを焼いた。そこであらためて二人は杯を酌み交わし、首に手をかけあい、その姿で一緒に鎮座した。」

 と、この箇所を読んだところで、これは、寝込みを襲われた大国主命の姿だったんじゃないのか、と直感的に思った。敵襲によるものだ。それも不意にクーデターのようなもので、大国主命はなすすべもなく、捕らえられたんだ。
 史実の書き換えだろう。杯を交わして、お互い首をしめつつ心中したっていうのはどう考えても不自然だ。
 そう考えながら、その本を買って、家に帰ることにした。
 帰りは、バスにしようと思い、〇〇団地行のバスに乗った。バスの乗り口は、後ろからで、番号のついている整理券を手にして、後方の空いている席に座った。

・・・先が三角のような形で狭まっているような地形の森だった・・・

 あれは、能登半島のことだったのかもしれない。
 出雲でなく、能登だったのだろうか?大国主命の最終地は?
 いや、待てよ。これは出雲から続くストーリーなのかもしれない。

 バスは出発し始めた。駅前のロータリーを回って、信号を抜けて、中央通りに出た。バスに揺られ、外に写る噴水と広場をぼんやり眺めながらも、脳裏には、違うものが映し出された。
・・・・・・・・・・・・・
空にそびえる大社。
地上50メートル以上はあろうという社。
空にまつられた神を祭った社。
社そのものはさほど大きくないが、社を支える柱はとてつもなく太くて高い。
四本の太い柱の上に社が立ち、社の前面から下にむかって階がつくられている。
その階段をささえる木が十字に格子状に作られている。

 最初にこの映像が脳裏に浮かんだのは平成6年(1994)の1月1日の深夜0時のことだった。

 ああ、これはむかしの出雲大社に違いない。そう直感し、

・・・あの上まであがるのはそうとうの勇気と努力が必要だろうな・・・

 そう思った瞬間その映像は消えたのだった。 

 その6年後の平成12(2000)年、私の見たものがただの想像ではなかったことが証明された。発掘調査で古代の社を支えていたと思われる大型の柱が三本セットで見つかったのだ。その発掘から推定される高さは地上30メートルだから、私が見た感じとまったくおなじだ。地上50メートルと思ったものもだいだいそうだというだけで、実際に、30メートルのものをみれば、素人目にはそれが50メートルくらい感じるだろう。

 そんなことがあった大晦日と正月の狭間のヴィジョンの五カ月後、あれは、たしか1994年の5月15日だった。
 私は友達に誘われて、出雲大社に出かけたのだ。まったくの平日だったのが、うまい具合に仕事の都合がつき、でかけることになった。友達は岡山の実家だったので、そこで一泊して、そこから出雲へ抜ける途中の、精進料理で有名な旅館に泊まって、出雲大社を目指した。

 風がつよく吹いていた。
 時折、雨もふっていた。
 出雲大社へつくと、大社のほうからたくさんの車のつらなって出てきていたのか、反対車線の道路は大変な渋滞だった。

 ようやく大社につくと、駐車場はまだ若干混んでいた。なかなか駐車場が空かない。そのうち私は前後の車に挟まれて立ち往生してしまった。
 そのときだった。
 後ろからクラクションをならされて、急に怒りの気持ちがこみ上げてきた。
 なぜか心の中で、「こうして、嵌められたのだ、」という思いがその怒りの原動となっていた。なぜだろう?

 「前にもすすめず、後に引けず、このように幽閉されたのだ!」

 そういう言い知れぬ怒りが私を襲った。
 それは一瞬のことだったが、異様な感情だったので、いまでも忘れることができない。普段の駐車場でいらいらすることなど、何度でもあり、そんなことをみな忘れ去ってしまっているのに。このときの怒りの感情はなぜかいつまでも忘れられない。
 しばらくすると、前方に空いた駐車スペースが見つかり、駐車することができた。

 境内にはいると、なにやら神輿がしずしずと社殿の方へ、向かって進んでいる。その進み方がいかにも厳かで、普通の神輿とはあきらかに違っていた。とても大切なものを粗相をおそれて、しずしずと進んでいるような感じだった。私もゆっくりとその後を追った。

 拝殿の中に、その神輿は入っていって、ゆっくりと安置されて、かなり高位と思われる神官がその神輿の中から、白い光沢のある布のようなものに包まれた正方形の箱を取り出し、大社の中へと戻そうとしていた。

 その時である。

 ************

 一瞬なにか、非常に清らかな白銀のバイブレーションが私に向かって流れてくるのを感じて、立ち尽くしてしまった。

 言葉で表現するのはむずかしいが、神界の霊脈とでも言おうか、太古より非常に大切されていたのものが、いま一挙にこちらへ向かってきているような気がした。

 あとで、地元の人との会話でわかったことだが、あの神輿はただの神輿ではなく、本当の御神体をまつった神輿であり、それは千年のうち七十七回大社のなかから出てくるという特別なものだった。祭りの当初、雨のため、中止となり、そのためそれまで集まっていた多くの人々が残念ながら、あきらめて去って行ったという。
 私たちが遭遇したのはそうした人たちの車の列だった。ところが、私たちが着いたころ、にわかに晴れだしたので、急遽神輿を出すことになったという。この僥倖に浴した人たちは私たちを含め、ほんのわずかな人だった。実際は拝殿前にあつまった人垣は一重にも満たない、多くて20人くらいだった。

 その話を聞くまで、私はすっかり、自分がその年1994年の元旦、出雲大社の霊夢を見ていたことを忘れていた。そして、地元の人の不思議な話を聞いて、驚愕するとともに、私は神様に呼ばれてここまで来たことを実感したのだ。
 しかも、雨で中止と発表されていなければ、私たちは車の渋滞のため、大社にたどり着くことさえできなかったであろう。雨によって、人払いされたため、私たちは拝殿のまん前で神事をすべて見ることができた。これは神様のお導き以外には考えられない。
・・・・・・・・・・・・・・・・

 ふと外の景色に意識を戻すと、バスはいつもの橋を渡り始めた。おっと、危ない、このすぐ先で降りなきゃいけない。ボタンを押して、慌てて小銭を用意して、自宅近くのバス停で降りた。
 坂の途中にあるバス停から自宅に向かう。途中に産土神社の森があり、そこを迂回していくのだが、まだ、日も暮れていないので、お参りしていくことにした。

 賽銭を投げて、二礼二拍手一礼。

 出雲大社では、四拍手する。4には鎮魂の意味があるという、また、拝殿から拝んでも、正面を拝めないようになっている。拝殿から拝めるのは、他の神々で、大国主命はその奥で、右を向いた形で祀られている。

 なぜ、このように祭られているのか?
 答えは「国譲り」神話であろう。
 国譲りとは、国を譲り受けた側の言葉であって、譲り渡した側はそうは決して表現しないじゃないだろうか。大国主命は国の主権を略奪され、幽閉された。もしかしたら暗殺された可能性だってあるが、仮にも一国の王である。そう簡単に暗殺できるものではない。たぶん、政略的に国の主権を譲らされただろう。その後、幽閉したか?最後にそのたたりを恐れて遺言どおりに空高く祀ったんだろう。

 そんなことを思いながら、参道の鳥居で一礼して、産土神社の鎮守の森をあとにした。

 気多(けた)大社

 家に帰ると、早速パソコンで能登の神社を検索しはじめた。
 インターネットで「石川県 大国主命」と検索した。すると、「気多大社」の案内が出てきた。祭神は大国主命。しかも、社格は出雲と同じ「大社」である。
 私はこれだ!と直感するものがあった。
 ここが大国主命の終着点だ、と。
 ここに最後の秘密がある、と。

 インターネットでさらに、詳しく調べてみると、

 ここに大国主命が祀られていること。
 朝廷の尊崇が厚かったこと。
 神威が中央国家に及んでいたこと。
 また縄文前期から中世にわたる大規模な祭祀関係の出土品の遺跡があることなどがわかった。

 これらの事実が、大国主命の終着点だと感じ取った私の直感を裏付けてくれた。
 伴侶と相談して、4月の頭に行ってみようということになった。

 それから、何日か連続して、不思議な夢をみた。
・・・・・・・・・・・・
 最初の晩
 大国主命と思しき大男が泣きに泣いて、喜んで現れた。
 しかし、あとで頭が締め付けられるようにして苦しんでいた。よく見ると、金の輪で締め付けられる。そう。あの孫悟空の金の輪のようなものだった。
 これは敵に付けられたものらしく、この封印を解かないと、大国主命は自由になれないのかもしれない。・・・そう思った時に、目が覚めた。

 次の日の晩
 はじめに苦しんで現れた大国主命が、途中から天使のような精霊に変った。いつものように陽気ではしゃいで、笑っていた。(この精霊は、我が家の守護天使だった)
 その後、精霊は急に悲しみだした。それはもうこの家を離れて、神界に戻らなければならないということらしい。使命を終え、もう神界に戻るときがきたという。その悲しみのようだった。・・・・夢から醒めると、この大国主命に関することは、我が人生で最大のミッションなのかもしれないと思った。

三日目の晩
 夢の中で、剣道の道場のようなところへ行っていた。そこには、神様が居て、私は、みことさま、と呼んでいた。(「みことさま」は、尊称で、尊敬する人を名前でなく「先生」と呼ぶようなもので、ちゃんとした名前はあるのだけれど、それは、いろんな意味で秘密にしておかなければならない。みことさまは、我が家の守護神のような存在である。)
 その道場では、私が、頭を締め付けられて苦しんでいた。最初の夢でみた、大国主命にはめられた金の輪と同じものだった。あまりに痛くて、うずくまっていると、みことさまは、エイっと剣印を結んだ(人差し指と中指と立てて、あとは閉じる)右手で、私にむかって、腕を振り下ろした。すると、金の輪は、外れて苦しみは取れて、すっきりした。
 外れた瞬間に、その道場も消え、夜空に北極星が光輝いていた。そして、いつの間にか、大国主命が現れ、男泣きに、大泣きに泣いてよろこんでいた。
・・・・・・・・・・・・

 そんな、連続した夢を見た後で、4月3日に、私たちは、夫婦で気多大社にいくことにした。
 3時に起床して、3時半に出発した。関が原ICから北陸自動車へ入り、金沢東ICで降りる。そこから羽咋市にある気多大社へむかった。神社の駐車場についたのは、7時半をまわっていた。およそ4時間かけて到着した。走行距離は片道で292kmだった。
 高速の金沢東ICをおりて、したの道を走ると、地名には「小松」、「高松」、「松任」、と「松」が私たちを待っていた。ここの日本海側の強い海風を防ぐ手立てとして、沿岸沿いには防風林として松の木林が密集していたのだった。
 行く途中は曇り空で、途中のSA(サービスエリア:休憩所)での天気予報では、今日明日は寒くなるらしい。昨日まで暖かったので、二人とも薄着をして出てきて、もう少し暖かい格好にすればよかったと車中話していた。うっすらと雨もふり、車の中もすこし寒さを感じた。外気温度は7度。ああ、ここはまだ冬かな、と思ったりしたが、羽咋市につくと、雲間から太陽が顔を出し始め、すこし暖かく感じた。天気予報では午前中曇りだったが、ちょうど羽咋市のあたりのみ雲の間から日が差しているような感じだった。
 羽咋市は「はくい」市と読む。不思議な感じである。その地名の由来は、遥かむかし、第11代・垂仁天皇のころ、滝崎に悪鳥が住み、領民を苦しめました。これを聞いた天皇は、皇子石衝別命(いわつきわけのみこと)を派遣し、皇子は首尾良く悪鳥を射落とし、このとき、皇子の3犬が悪鳥の羽を食い破ったことから「羽咋」の地名が起こったという説があるらしいが、本当のところはあまりよくわからない。

 駐車場につくと、まず参拝した。本殿には神輿が安置されているらしい。その神輿は4月3日まで拝殿に安置されており、それが「平国祭」の最終日である。その情報をインターネットで知り、今日参拝に来たのだった。本殿の左には若宮として事代主命が祭ってあり、ひだりに奥には「太玉神社」があり、大祭は4月4日(翌日)とあった。私は4月3日が多分命日であり、その翌日の葬儀にあたるのが太玉祭ではないかと思った。私の霊体験で見たのも大きな玉だった。大と太では「太」の方がより大きなものの意味をなすらしい。
 本殿の奥には「入らずの森」(一万坪)という神域があり、原生林がそのままに神域として保存され、むやみに人が立ち入ることを禁じていた。その奥にはスサノオ尊とクシナダ姫が祀ってあるらしい。私の霊的体験の森が、この森だと私は直感で感じていた。
 原生林の森、と大きな玉を表す「太玉神社」の存在、この二つの符合は偶然ではありえない。
 私たちは、参拝を終え、「入らずの森」周辺を散策した。神社の看板をみると神社周辺をめぐる散策コースがあり、それが「入らずの森」を一周していた。どこかいい場所で神事をしようと、お神酒、お水、お塩、お米をちゃんと準備していた。
 しばらく、散策してまもなく、ちょっとした小道を見つけた。そこを分け入った。しばらく散策すると、大きな池の前にある開けたところに出た。

 「ここなんじゃない。」と伴侶が言った。私もそうだと思ったが、他にも場所があるかもしれないと思い。もうすこし、散策することにした。池の向こう側の奥に行こうと思い歩き出したが、どういうわけか右や左と曲がって歩いているうちに、出発した元場所、開けた池の前に出てきてしまった。

 どうもこれはここで神事を行えということらしい。

 その場所から、池を望むと丁度森が三角形のような地形になっていた。池があることは霊夢では気づかなかったが、その地形はまさしく、夢のヴィジョンと一致する。

 私たちは早速、準備に取りかかった。小さな三宝を二つ並べて池の前に供え、お神酒、お水、お塩、お米を備えた。
 まず、結界を張る作法。神業に邪魔が入らないように、九字を切ると湖面がさざなみを打って風が私たちの方へ向かってやってきた。

 ああ、喜ばれている、と思った。

 次に、大祓いをあげ、顕祭の祝詞をあげた。事前に練習すればよかったのだが、初めてあげた祝詞だったので、たどたどしかった。
 途中、よしここで神剣を振るおうと思い、北海道旅行でひょんなことからいただいたアイヌの方に彫ってもらった小さな木製の剣をとりだした。

 夢で、みことさまに、金の輪を外してもらったように。
  エイっと
 湖面に向けて空を裂いた。

 またもや、さざなみが湖面に現われ、風が私たちの方へむかってきた。この木製ナイフは北海道の知人が職人さんに頼んで作っていただいたものだが、木製ナイフの職人さんはアイヌ人で気難しく、本当に作ってくれるかどうかわからないということだった。でもちゃんと作ってくれた。木製ナイフは真中あたり玉のような丸い穴があいた太くて立派な木製ナイフだった。私は、これは何か神事、しかも御魂鎮めに使えると思っていた。この日のための木製ナイフだったのではないかとさえ今は思っている。
 そして神事は無事終わった。あとでお神酒などを湖面に投げ供えた。

 神事を終え、来たときと逆方向へ歩いていくと、一周したのか駐車場の方へ出た。しかし、道路の舗装工事中のため、ショベルカーなどが動いていた。工事中のところをいそいそと通ってきた。もしはじめにこちらから行こうとするなら、工事していたのでこちらから入るのは諦め、すんなりと目的地にも行けなかったかもしれない。また工事をしていた雑音のお陰で、私たちは密かに神事をしていたことがばれずに済んだのかもしれない。

 私たちの神事が終わったのは8時半ごろだった。例大祭は10時からなので、しばらく喫茶店で時間をつぶそうと思ったが、なかなか喫茶店が見つからない。マクドナルドを見つけたので、伴侶はそこでしばらく休憩した。私は猛烈に眠気に襲われたので車中で眠った。
 もう一度戻って、気多大社の駐車場につくと、大きくて白い鵜が挨拶するようにやってきては、去っていった。あまりに大きく、また白いのでペリカンかと間違えたくらいだった。とても大きな鳥だった。
 祭りは氏子と思われる人たちが拝殿の中に入って、行われた。私たちは外から様子をうかがっていたので、あまりわからなかったが、巫女の舞、祝詞、玉串奉典という順で終わったと思う。それから、みんなが拝殿から出てきた。
 神社の拝殿のある境内に入る門の前に、机が置かれ、そこに弓、槍、刀が安置された。それぞれの神職がそれらの武器を手に持ち、そして黒い的を持つ神職がいた。まずの門を出たところで、黒の的に向かって弓、槍、刀を構えて、その的を射る格好だけした。それから門の下の階段をおりたところで同じような所作をして、最後に、石畳の奥まで歩んでいき、入り口の大きな鳥居のすこし手前にある大きな○を書いた紙を貼り付けた木枠があり、その○の真ん中に黒い的をおいて、今度は少し離れて、本当に矢を射った。二度放ち、次に槍を突き刺し、刀で止めを刺した。私の目には大国主命の最後を象徴している神事のように写った。
 神事が終わると、みんな我先にと、急いで的として貼ってあった紙を取りに行った。よく見ると伴侶もいつの間にかその紙を剥いでいた。かなり大きな部分を剥いでもらってきた。私は伴侶のすばやさにびっくりしたものだった。

 帰りの車の中で伴侶といろいろと話し合った。
 つまり、大国主命はここまで、船でつれて来られて処刑されたか、なんらかの理由で亡くなった。そしてあの池に沈められたではないか。そうかもしれない。だから太玉社例祭が翌日にあるじゃない。葬式だから。
 そういえば、私は羽咋市についてから右足が妙に痛み出した。なぜだろうかと思っていたが、これもこの大社に関係があるような気がした。しらべてみると、鵜祭りというのがあり、そこではこのような神事があるという。

 当日は照明も消され、ローソク二本の明りで祭りが開始されます。殿上の執事役が「うとりべ、うとりべ」と呼ぶと、白丁姿をした鵜捕部三人が鵜籠を抱え、御本殿下にかしこまり「おお」「羽そそげたるか、足痛みたるか、よく見よとのたもう」「ウは新ウにて安くけげしく候」この後、問答があり、鵜は籠から神前に放たれます。

 この神事はかなり古くからあり、その由来は明らかではないようだが、鵜というものがすべてを語っているように思う。古来、神はよく鳥との関係がふかい。日本武尊も白鳥になって空を飛んだと言う。私はこの鵜とは、入水して亡くなった大国主命ことを表していると思う。鳥の中でも、鵜とはまさしく、水中に潜るではないか。
 また「羽そそげたるか、足痛みたるか、よく見よとのたもう」という台詞に大国主命が足を痛め、最後に処刑されたのではないかと思った。羽咋(はくい)とは変わった地名だが、この「羽そそげたるか」という言葉となにか関係がありそうな気がする。私は羽咋市に近づいたとたん、急に右足が痛みだした。その時は長時間運転で姿勢が悪くなったからと思っていたが、帰りも同じようなところで痛くなったので、どうもあの辺の場所に関係があるような気がする。
 また、大国主命は闇を司るとされている。闇に放たれた鵜とどうしても重なりあってしまう。
 例大祭の直前、駐車場で出会った立派な白い鵜は、私たちの神事が成功したことを告げるために来たのかもしれない。あんな大きな、しかも白い、鵜を見たのは、あれが最初で最後だった。

 とんぼ返りで、家に帰って、その日は疲れたので、すぐに寝た。すると

・・・・・・・・・・
  首を龍のようにうねらせて天に昇るかのように大国主命が現われた。
  まるで、龍が螺旋状に水中から勢いよく飛び出てきた。
  両手で大きな玉を掲げて、ガオーと怪獣のような雄叫びをあげていた。
  それから私の方に振り向いて鎮座し、大いに笑った。
  またしばらくすると笑いながら、泣いていた。
  いままでの苦難が笑いながらも出てきたようだった。
  また最後にオンマカキャラヤと大黒天真言を唱えて、笑っていた。
・・・・・・・・・・・

 気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされが、それならば、なぜ開拓に力を貸した神といわれる少彦名神や他の一族をともに祀らないか。
 また、乗ってきた船を蹈み傾けて「天の逆手を青芝が着(青父子が着)に立ち茂るし手印利器」と古事記は記している。(これは、事代主に関する記述だが、私は大国主命にも関係があると思っている)逆手をうってその船を神霊のこもる青い柴の垣となして、その内に隠れたというのであるが、船と青い柴垣というのがどう考えても、すんなり結びつかない。
 船でつれて来られ、あるいは逃げてきて、原生林で幽閉されて、池にその御魂を祀った。
 そうすれば、すべてつながる。
 なぜ、ひっそりと祀られているのか。また、このようにひっそり祀られているにもかかわらず、なぜ、古来より朝廷の尊崇が厚かったか。そして、なぜ古事記に、「逆手をうってその船を神霊のこもる青い柴の垣となして、その内に隠れた」という奇妙な表現が残っているのか。すべては一つにつながるではないか。

 大社には大黒天も祀られていた。最後に唱えた大黒天真言には、ちょっとおもしろい説がある。つまり、大黒天が転生して、日本で大国主命になったという説である。
 古代霊的中心はインドであったが、それが日本に移り、その影響で、多くの御霊が日本に転生したというものだった。大黒天の前世は、釈迦と弟子たちをたぶらかした悪魔ナムヂだという。改心して、大黒天となり、僧侶に食を供し、庶民に福をもたらす神になったという。大国主命の、またの名をナムジという、単なる偶然だろうか。

 晩に、龍となった大国主命の夢をみた、その日、4月4日。
 その夢が正夢となった。鳥取沖で竜巻が発生したのだ。

 「鳥取市沖で竜巻 カメラが瞬間映像とらえる」
 鳥取市沖の日本海で4日午前10時半ごろ、竜巻が発生した。NNNのカメラが竜巻をとらえた。

 4日午前10時半ごろ、鳥取市沖10キロの日本海で、竜巻が発生した。映像からは、ろうと状の雲が東に向かって伸びていく様子がわかる。竜巻の規模はかなり大きなものとみられ、約10分後には消えてしまった。目撃した人の話によると、厚い雲と海面の間に伸びた1本の竜巻が太さを変え、曲がりくねりながら海上を東の方向に移動していったという。

 私も偶然この映像をニュースで見た。とてつもなく大きな竜巻だった。海上で発生して、消えたため、被害はまったくなかった。
 鳥取といえば、出雲大社のあるところだ。これは大国主命の荒御魂の力が龍体となって、完全に解放されたことを表しているのかもしれない。

 気多(ケタ)大社という名前の由来も実はわからないらしいが、一説には「ケタ」はアイヌ語で「コタ」(滞在した)という語が変化したのだともある。自分たちの王、縄文人である大国主命はこの地にとどまり、ここで亡くなったことを示しているのか。わたしはそうだと思う。そうでなければ、こんな僻地になぜ「大社」という破格の扱いで大国主命を祀るのか理解できない。当時まだ、日本の北方は縄文人(アイヌ人)たちの世界だった。「自分たちの王がここに滞在していた」、と彼らは唯一の証拠を「気多」という名をつけて残したのではないだろうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?