句:ポジショントーク

※金融の用語ではない。

 ポジショントークとは〈その人の立場ポジションに基づく言説トークのこと――だが、文脈によって派生的なニュアンスを含むことがある。

  1. 〈事実とは異なる嘘〉〈嘘とまでは言えないが偏った印象操作〉を示唆する批判。

  2. 〈発言者の本意・本心ではない〉ことによる免責

 最近多く見かけるのは前者の用法だろうか。

◆2つの用法

 (広い意味での)政治において普遍的に見られる。最もシンプルな例は次のようなものだ。

  • ある計画や法案などに対して、

    • 賛成している人はそのメリットを語り、デメリットに触れない。

    • 反対している人はそのデメリットを語り、メリットに触れない。

用法1.:

 『語りたい部分は大いに誇張し、触れたくない部分は何でもないことのように矮小化する』ような例は極めてありふれているし、事実を捻じ曲げるようなケースも中にはあるだろう。
 ただ、それが発言者個人の信念なのか何らかの集団がもつイデオロギーに依るのか、外部から見分けるのは難しい。
 実際には上のような単純な図式は珍しく、ほとんどの場合は間に何らかの集団が挟まるからだ。

  • ある計画や法案などに対して、

    1. 自分自身は賛成でも反対でもないが、

      • 所属団体が賛成しているのでメリットを語り、(後略)

      • 所属団体が反対しているのでデメリットを語り、(後略)

    2. 自分自身も所属団体も積極的な賛否はないが、

      • 票田になりそうな団体が賛成しているので(後略)

      • 票田になりそうな団体が反対しているので(後略)

 個人は、議員だろうと活動家だろうと一般人だろうと、興味の偏りがある。特定の問題について熱心に議論している人が別の社会問題には知識も興味も欠くこともありうる――というか、能力にも時間にも限りがあるのだから偏っていて当たり前だ。
 興味の薄い問題に関してであれば、確固たる賛成も反対も無い。この場合、政党なり派閥なりの方針に従っておくという判断になりがちだ。『組織内での立場』を巡る政治もあるのだから。

 特にすべての政治家は『選挙で落ちたら無職』という立場ポジションにある。どんなに崇高な信念を持っていても落選すれば何もできないわけで、勝つための言動にもインセンティブが生じるのは宿命だ。
 結果、客観的事実や個人的に信じる正しさよりも他の都合が上に置かれやすい。攻撃あるいは擁護のために、事実が蔑ろにされることもしばしばである

 このように『ポジショントーク』というラベル自身がネガティブな意味合いを含むこともあり、時には悪罵にさえなる。
 しかし筆者の個人的な感覚でいえば、これは比較的新しい用法だ。

用法2.:

 次の2つはどちらもポジショントーク的だが――

  • 売上を命題とする営業員が、契約を取るためにメリットばかりを強調すること。

  • 製造と保守を命題とする開発者が、過剰な期待を削ぐために無理なものは無理と明言すること。

どちらが良いとか悪いとかいうものではない。むしろ売り手にとっても買い手にとっても不可欠な要素だ。

 同じ会社でも営業と開発の折り合いが悪ければ、『売上の足を引っ張るな』とか『無茶な案件を取ってくるな』といった対立が生じるだろう。
 しかし関係が良ければ、客側クライアントの耳が無いところでこんな会話をするかも知れない。

営:すいませんね時間使わせちゃって。
開:いやー今回のは無理だわ。要求が高すぎ。
営:僕もそう思ったんですけどねー……
開:まぁ営業の立場じゃ言いにくいよな。

無事に失注●●●●●した後の会話

 開発の人間からすれば、ポジティブなことしか言わない営業には腸が煮えくり返ることもある。『頭■カ■いんじゃないか』などと思うこともある。
 しかしそこを『立場的に仕方ない』と飲み込むための方便タテマエが、『あれはポジショントークであって本意ではない』という免責だ。

 口うるさく領収書を取ってこいと繰り返していると営業などからは鬱陶しがられる――それでも経理の人間は職務として言わざるを得ない。
 単なるお仕事ポジショントークとして切り離しておかないとその人個人を嫌いになってしまうだろう。それは互いに不幸なことだ。

◆比較とまとめ

 〈ポジショントークに徹する〉という慣用句を例に取る。

 この述語を用法1.で解釈するなら『事実を無視して都合の良いことばかり言っている』的な厳しい批判だろう。もちろん事実の軽視やデマを肯定することはできない。ネガティブな解釈だ。

 対して用法2.では『その人の職責を全うする』的な評価になる。
 つまり弁護士は検事みたいなことを言わず検事は弁護士みたいなことを言わず、裁判官はメディア受けや支持率を気にしない。そういう言動も〈ポジショントークに徹する〉と表現できる。裁判は役割分担によって公平性を実現するのだから、こちらはポジティブな解釈。
 というかポジショントークを投げ捨ててもらっては困る例だ。

 良い悪いという話ではない。
 個人的には『デマと呼べるものはデマと呼ぶべき』と思うが、それをポジショントークと呼ぶのも自由である。
 また、裁判が弁護士と検事の緊張で成り立つように、政治もそれぞれの利益を擦り合わせて進められるものだ。故に自身らの支持する法案などを肯定的に喧伝するのは(デマや他者への口封じは別として)悪いことではない。

 ポジショントークを良いように言えば『旗幟鮮明』なのだ。立場がはっきりしている。分かり易い。
 それが事実の軽視や過去の捏造といった域に達すればもちろん批判されるべきだが(そして筆者はそれをデマと呼ぶが)、ただポジショントークであるというだけでは批判にあたらないものと考える。

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