“心のバリアフリー”は双務的である
◆“心のバリアフリー”
心のバリアとはなんだろうか。
車椅子生活者としての経験から言えば、心のバリアと呼びたいようなものは確かにある──が、それは筆者の要求が叶えられないことではない。
むしろその逆とさえ言える。
少し想像してみて欲しい。
ある人があなたへの強い命令権を持っていて、その人の要求を断ったり失敗したりしたら激しく責められるのなら、その人と仲良くしたいだろうか。
『頼むからこっち来ないでくれ』と思うのでは?
逆に客などの立場の時、あなたのちょっとした要求が絶対的な命令として受け取られるとしたらどうか。
そんな状況で何か頼めるか?『出来るか出来ないか知りたいだけで、出来ないなら出来ないで構わない』みたいな質問もできなくなるのに?
2つをまとめると、要求の絶対性は心のバリアである。
すなわち(筆者にとっての)心のバリアフリーとは、『気軽に求められること』であり『求めを断れる・調整できること』だ。
障害者であろうと健常者であろうと、一方的に義務を負わされるような関係は当たり前に嫌われる。
片務でなく双務でなければ、良い関係が続くわけがない。
(過去に書いたエレベーターの優先利用に関して)
◆合理的配慮に必須の手順
実際、『合理的配慮の提供』は義務化される。ただし以下のリーフレットにも明記されている通り、障害者の要望を叶える義務ではない。
そもそも『何が合理的配慮なのか』は障害者個々人で異なる。
事業者側がそれを予知して備えることも、申し入れ無しに察することも、完全に不可能なのだ──良いとか悪いとかではなく。できるわけがない。
すなわち障害者の側は、建設的対話をする──自らの要望を伝え事業者側の事情とすり合わせる──義務を負う。これを怠って事業者側にだけ何か求めるのは筋が通らないし、繰り返しになるが無理なのだ。
もう1箇所引用しよう。
ある障害者が飲食店に食事の介助を求めたとする。飲食店はそれが業ではないことから断ったとしよう。
ここまでの段階で、双方の主張は明白だと思われるかも知れない──が、そうとも限らない。例えばこんな障害者だっているだろう。
(あくまでこの例の人は)食事のスピードと時間が問題の根本であって、介助は解決手段のひとつでしかない──このような背景は「建設的対話」を通して初めて明らかになる。
飲食店の側が上を把握すれば、それに則した解決策は考えうるだろう。混んでいない時間なら快く受け入れるかも知れないし、時間をズラしてくれと求めるかも知れないし、予約を取ればOKかも知れない。
それもまた店ごとの事情であって、客側には知り得ないことだ。だからこそ対話・折衝は義務なのである。人間がテレパシーを使えないという現実を踏まえることは差別でも排除でもない。
また、双方の事情をすり合わせた結果どうしても折り合いがつかないなら、もう仕方がない。サービスを受けることも供することもできない。
店に無理を強いるならそれは客ではなくクレーマーだ──障害者だろうと健常者だろうと。
本稿を書くきっかけは某映画館での件だが(個人攻撃は意図するところではないので引用はしない)、劇場側の人間は『〜〜と思いますがどうでしょうか』と申し入れの形をとっている。
その日の入場は手伝った上で、観劇後に。
つまり対話の姿勢だ。お互いの事情をこれから詳らかにしていく段階である。
障害者の側はその場では上手く要望を伝えられなかったらしい。それは誰にでもありうる戸惑いでなんら悪くもないのだが……。
ということは劇場側は障害者の事情を正しく把握できていない。繰り返すが察しろというのは無理だ。
伝えなければ分かるわけがなく、分かっていない段階でとりあえず出された一次提案に不備があるのもやむを得ない。
また、この障害者は劇場側がなぜそんなことを言うのか分からないと書いている。
劇場が入場を断った理由は人員の問題とされているが、恐らくその裏には安全配慮義務があるものと想像される。
あるいはそれとは別の、劇場に固有の事情だってあるかも知れない。それを障害者の側は把握していない。
このことから、建設的対話は未達である。どちらが対話を放棄したのかや再開が可能なのかは、外からは断言できないけれども。
◆当たり前のまとめ
誰に責任があるにせよ対話が未達のままでは、合理的かつ具体的な解決を提供/享受することは不可能だ。劇場や経営母体を責めたところで問題は解消しない。誰にもできない。
そして『障害者を相手にすれば不可能事を要求される社会』なんてものは、健常者はもちろんのこと障害者にとっても確実に生きづらい。筆者はそんなものを望まない。
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