創作物の改変・販促・映像化

 本稿では、原作者と映像化サイドとの関係において普遍的な原則を整理したい。
 個別の事例には踏み込まない。詳細は契約にもよるから。それと悲しくなるから。

(様々な事例があることは承知しているが、本稿では『小説または漫画の原作を→実写化またはアニメ化する』という前提で話を進める)


◆映像化以前﹅﹅の話

 まず、筆者の主観に拠らない事実を幾つか指摘しておく。

□事実1

 創作者の端くれとしては歯がゆくも感じるが、〈良い作品があれば勝手に売れるわけではない〉。

 どんなに有名な作家の素晴らしい作品でも、ペンネームを隠して宣伝もせずにコミケなどに出せば買う人は少ないだろう。作者の宣伝なしに大売れしたとすれば、そこには必ず他者による宣伝がある。
 読まれるためには広い意味での販促プロモーションが必要不可欠だ。そしてほとんどの作者は広く読まれたいと望むものである。

 出版社は有力なプロモーターだ。昨今では個々の作者がSNSアカウントを持っていることも珍しくないが、少なくとも商業作品の販促を主導するのは作者ではなく出版社であることが多い。
 つまり根底にあるのは──、

  • 作者は自分の作品を『売ってくれ』と託す

  • 出版社はそれを引き受ける代わりに利益を得る

──こういった関係だ。エージェント契約の一種(※)とも表現できよう。
 時には出版社の依頼でサイン色紙などを作者が書くにせよ、それは販促プロモーションに使うからであり、双方の利益に繋がる。

※:筆者の知る限り、小説家や漫画家の多くは出版社の社員ではない。以下の本文では雇用者と被雇用者の関係ではないことを前提とする。

 さて、今のところ映像化の件には全く触れていない。しかし想定している問題──すなわち原作者の望まぬ改変──が発生する余地は、原作者と出版社の間にもすでに存在している

□事実2

 漫画にせよ小説にせよ、『原作をそのまま刷って売るんだからそんな問題は生じない』と思われるかも知れないが、それは違う。避けがたい事実として、〈『そのまま』な販促プロモーションなどありえない〉。
 このことは、貴方が出版社の販促担当になった場合を想像すれば明らかになるだろう。

 作品を読んで欲しい相手が友人や家族であれば、『いいから黙って読め、面白いから』という勧め方もできる。これは『作品そのまま』だ。
 しかし市場マスが相手だとそうもいかない。

  • 作品のあらすじを短くまとめるとか、

  • 名場面・名台詞を切り出すとか、

  • 読者の感想をまとめるとか

 他にもやり方は考えられるが、何かしら『そのままではない形』へと抽出・加工・演出を加えることになる。

○例示
 『ジョジョの奇妙な冒険』の第1部に、『“メメタァ!”という効果音と共に殴られるカエル』が描かれたコマがある(正確にはカエルの下にある岩を殴っており、カエルは無傷)。
 これは主人公の師にあたる人物が、その超人的な能力を披露するシーンであって、カエル自体は重要ではない。ストーリー上は他の生き物でも構わなかったはずだし、“メメタァ!”という奇妙な音に特段の必然性や伏線があったわけでもない。
 一般的には『重要ではないシーン』にあたるだろう。しかし同時に『極めて有名なシーン』だし、本作を知らない人にとっても『意識を惹く奇妙なシーン』である。

 仮にこのコマを作品の宣伝に使ったとしよう。原作者の荒木飛呂彦氏がどう感じるかは分からない。筆者の感覚で言えばやや不快である。
 一方、プロモーターの論理で言うと『それで売れるならアリ/売れなければナシ』だ。

□事実3

 プロモーターの論理は拝金主義のようで嫌な感じがするかも知れない。しかし〈それこそ彼らが請けた仕事である〉のも事実だ。

  • 作者は自分の作品を『売ってくれ』と託す

  • 出版社はそれを引き受ける代わりに利益を得る

 お金を貰って売ることを委任エージェンシーされている以上、売れるように最善を尽くすのは義務であるとさえ言える。

 もちろん何をしても良いわけではなく限度はある。具体的にどこまでを限度とするかは契約次第だろう。
 ただしプロモーションを託す時点で、作者は改変・翻案を認めざるを得ないことは留意すべきだ。仮に(文字通り)一切認めないとなったら、現実的に有効なプロモーションはほとんど打てなくなってしまう。


◆映像化以後﹅﹅の話

(以降は、出版業界の人間ではない筆者による主観や憶測も交じることをご了承されたい)

□映像化以前との共通項

 しばしば『出版社はなぜこんな映像化に許可を出したのか』といった声を目にするが、理由自体は明らかだ。ぶっちゃけてしまえば商売のためである(批判の意図は無い。営利企業なのだから)。
 それは出版社だけの利益とも言えない。映像化によって原作に触れる人が増えることは大いに期待できるのだから、その遂行は原作者から依頼されたプロモーターとしてのミッションである──とも言える。
 そのように捉えれば、どのような映像化も販促プロモーションのための翻案だと強弁する人もいるかも知れない。

 事実2で触れたのと同じく、〈『そのまま』な映像化などありえない〉のだ。これは原作サイドも映像化サイドも同意するところだろう。小説には小説の、漫画には漫画の表現があるのだから。
 つまり原作者にとって映像化とは、原作が大なり小なり改変されることを意味している。一般論として快いものではない。
 それを受忍するとしたら何らかのリターンを望んでのことであり、一般的にそれは原作がより広く読まれることだと考えられる。

 つまり出版社が作る切り抜き広告製作委員会による映像化も、原作者に及ぼす影響は似通っている。規模感がかなり違うだけだ。

□以前と以後の違い

 原作者の意思はどこまでをコントロールできるだろうか。
 幾つかのケースを検討してみよう。

  • 上で例示したような(メメタァ!)切り取り広告を、原作者が認め難いと感じた場合

    • その要望を出版社(および問題の広告を打った担当者)に伝えることはできるだろうし、恐らく通ることが多い。

    • プロモーターは他のやり方で売上を目指すだけだからだ。

  • どこかの書店で原作者のサイン会が企画され、その当日に作者急病となった場合

    • もちろんサイン会は中止か延期となるはずだ。

    • そうするしかないし、この場合もやはり他のやり方で売上を目指すのがプロモーターの論理である。

    • もっと言えば原作者は『行きたくないからドタキャンする』ことだってできなくはない。もちろん褒められたことではないが、可能だ。

  • 原作者が認め難い映像化をされる場合

    • 途端に口出しができなくなる(とされる)。

 こう整理すると理不尽に見える。
 反面、理解できなくもないのだ。アニメであれドラマであれ、漫画や小説に比べれば携わっている人数と使われる予算が桁違いなのだから。そう易々とは止まれない。原作者を含めて、誰だろうと個人の意思を踏み潰して進んでしまうおおきさがある。
 その位の力が無ければ達成できないほどの難事業であるとも言えよう。

 ここで一旦、やや非現実的な仮定を挟みたい。原作者個人が、イーロン・マスク氏のようなレベルの資産家であるとする。
 そんな原作者が、動き始めた映像化企画を止めたいと願った場合。
 手段を選ばず費用を惜しまなければ、恐らく止めることはできる。違約金なりなんなり、札束で頬を張り倒すだけだ。これだって(上のドタキャンに似て)褒められたことではないだろうが、できることはできる。

 ──では、そんな架空の資産を持たない現実の原作者は、金欠故に泣き寝入りするしか無いのだろうか?
 映像化サイドは『その通りだ、それが現実だ』と言うかも知れない。
 しかしその強要は、本当に約束を破っていないのか?


◆誰がそんなこと頼んだ?

 映像化まわりのトラブルでは『原作へのリスペクト』が度々叫ばれるし、筆者もおおむね共感するところである。
 ただし本稿では、リスペクトの欠如以外の──すなわちの観点での──問題を指摘したい。

 原作の映像化というミッションは、一体誰が依頼者で誰が受託者なのだろう?

  • 作者は自分の作品を『売ってくれ』と託す

  • 出版社はそれを引き受ける代わりに利益を得る

 作者と出版社の間にある作品は映像化作品ではない。
 もちろん実際の契約には映像化時の取り決めがあるだろうが、原作者の依頼はあくまで『私の創作物を売ってくれ』が本質なのだ。積極的な原作者であっても『機会があれば是非』であって、『映像化してくれ』を出版社に頼むわけがない。筋が違う。
 故に映像化はこのエージェント契約における枝葉末節である。

 聞き及ぶ限りでは、映像化サイドから『させてくれ』と企画を持ち込む例が多そうだ。発注も受注も彼ら自身だということ。
 一部の脚本家からは、オリジナル企画は認められにくいので原作付きをやるといった話も聞かれるが、だとしたらその企画は予算確保の段階で原作のネームバリューを借りたということ。勝手に名前を借りるのは法的にも道義的にも不味いので話を通さねばならない。
 つまり映像化サイドは──多くの原作者が映像化を喜び有り難がるとしても──、金銭と依頼の関係を整理すれば『ふんどしを借りたいから許可を得る』側なのである。
(きちんと許可を得る範囲においてはなんの問題もないし、原作の力を借りた映像化作品にオリジナリティやクリエイティビティが無いなどとは思っていない。ただ主導権は本来どっちにあるんだという話)

 先述の通り、プロモーターの論理は『それで売れるならアリ/売れなければナシ』だ。
 仮にこの基準を無制限に明文化した契約書があって原作者がサインしているなら、『売るために何をされても原作者は文句を言えない』状態になるかも知れない(そのような契約書が法的に認められるかは脇に置く)。
 が、そんな内容の契約書はまず無いはずだ。信義則の定めはあって当たり前である。となれば原作者は『売れるとしてもそれはヤダ』と主張する権利があるし、プロモーターは『イヤならしょうがない』と引き下がることを予め了承していることになる。

 これは原作者がワガママという話ではない。受忍する面だってありふれているのだ、読まれたいという利得のためならば。それを委託した以上は。
 例えば出版社は編集という形で原作に口を出すことがある。そんな露骨な言い方はしないだろうが、『これじゃ売れないよ』『こうした方が売れるよ』というわけだ。先述の通り売ることは原作者が依頼した出版社のミッションである。

 編集の口出しにせよ広告のための切り取りにせよ、原作者は納得した範囲アリを受け入れて納得できない範囲ナシを突っぱねるだろう──突っぱねられないとしたらそれは対等な契約関係ではない。
 逆に出版社はエージェント受託による利益が目標を割りそうなら契約を切るだろう──切れないとしたらそれも対等ではない。

 アリとナシの線引きは外野にはできない。原作者の心情、作品への熱意、原作者とプロモーターとの人間関係によっても判定は左右されるはずだ。
 はっきり言えばファジーな基準であって、映像化サイド──例えば脚本家──から見れば『これがアリでこっちがナシな理由が分からない』といった理不尽がきっとある。無いはずが無い。
 だから面倒に感じる心情には共感できるし、大変だろうとも思う。
 が、原作者と出版社で結ばれた契約はそういうファジーなものだろう。『私の創作物を売るためならそれをどんな風に扱っても私は文句を言わない』なんて契約をしている原作者はいないはずだ。

 ならば、リスペクトなどの心情的な問題以前に、『契約を守れ』という話になる。
 もしくは『札束で原作者の頬を張ってノークレームの契約を締結してからやれ』──同じことだが。


◆まとめにかえて

 これは企業コンプライアンスのようなものと認識している。

 納期がどうとか、若い脚本家の育成云々とか、芸能事務所との関係がどうとか、そういう面倒事が沢山あるのは理解するけれども、それはそれとして契約は守んなさいよ、という話。約束したでしょ、その通りにしなさいよと。

 ただし筆者は門外漢なので、例えば次の点などに誤解があるかもしれない。

原作者は納得した範囲アリを受け入れて納得できない範囲ナシを突っぱねるだろう──突っぱねられないとしたらそれは対等な契約関係ではない。
出版社はエージェント受託による利益が目標を割りそうなら契約を切るだろう──切れないとしたらそれも対等ではない。

セルフ引用

 この部分は、『一方がものを言えない強要的な契約も中にはあるかも知れないが、大部分は対等な契約だろう』という憶測に基づいている。
 もしこれが誤認であって、実際の業界では対等なエージェント契約の方が少数派なのだとしたら、『契約を守りなさい』ではなく『その契約おかしいでしょ』が主旨になる。

 いずれにせよコンプラというか、(広い意味で)法の射程範囲内に議論を留めたつもりである。

以上

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