競技における公平と平等

 スポーツを観戦していると、ジャッジに納得しがたく感じることはままある。今がシーズンのフィギュアスケートのように、審査員の採点が挟まる種目はその傾向が強い。
 『納得いかない』といった声はあちこちから聞かれるし、ここまでなら筆者も漏らすることはある。

 ただし、しばしばついて回る『八百長』や『出来レース』──つまり『不公平なジャッジが行われたのではないか』という疑惑は別だ。
 この疑念、気持ちは分かるが理屈としては筋が通っていない。『納得感が無い ならば 公平性が無い』という誤った論理を前提にしているから。

 納得感と公平性は独立であり、『納得はしがたいが公平』という場合はありふれている。だから不公平だと主張したければ納得感の不足だけでは足りない。他に論拠が無いなら単なる言いがかりである。
 この言いがかりの背景には、次の2つに関する誤解・混同があるように思う。

  • 競技における公平性

  • 日常的な意味での平等性

 本稿ではこの違いを明確にしたい。


◆競技の大前提

 『競技における公平性とは何か』の前に、まずは様々な競技に共通する当たり前の前提を確認しておく。

 競技である以上は順位をつけること、だ。
 順位をつけない催しが悪いわけではないが、それは競技ではなくレクリエーションやエキシビジョンと呼ぶべき別物だろう。

 そして順列すならべるには数値が欠かせない。
 陸上競技などは比較的簡単だ。順位付けに必要な数値(速さや長さや重さ)は計測すれば分かる。
 しかし種目によっては機械的な計測が難しい。
 冒頭に挙げたフィギュアスケートの他、鉄棒などの体操種目にもそのような側面がある。スポーツだけでなく、ピアノや吹奏楽といった音楽のコンクールも類例と言えよう。
 これらの競技(≒順列)には何らかの数値化(≒採点)が必要だ。

 採点プロセスには『不公平では』との疑いが向けられ易い。この疑いは『不当な差が付けられているのでは』とも言い換えられる。
 不当な差。例えば次のようなものだ。

  1. 選手間の差

  2. 審査員間の差

  3. 順序などの差

 1.については次の章に回し、まずは2.と3.について検討する。

□審査員の個人差とその対策

 ある選手に対し、審査員Aは高得点をつけ審査員Bは低得点をつけたとしよう。
 このような差はしばしば『採点基準の不備』『八百長』『自国びいき』などと批判される。

 確かに不正の可能性もゼロとは言えない。
 しかし不正だと言い切ることも早計だ。どんなに清廉潔白な審査員を集めても、甘めに高得点をつける人や厳しめに低得点をつける人といった個人差はあって当たり前なのだから。
(個人差をゼロにできるとしたら、陸上競技のように計測結果をそのままスコアにできるということだ。本稿ではそれができない種目の話をしている

 そしてほとんどの大会では採点プロセスに対策が盛り込まれている。だから、視聴者が次のような疑いを抱いたとしても──

こんな劇的な展開はできすぎだ、視聴率を稼ぐために点数を操作してるんだろう。

ドラマチックな僅差に付きまとう疑惑

──簡単に思いつくような方法での不正はまず行えない。

 他のスポーツでも無理だと思うがフィギュアスケートに関しては断言できる。不可能だ、と。
 審査員はリンクサイドにおり衆目との間に仕切りなどはない。それどころか手元までカメラが捉えている。審査が始まってから得点が確定するまでに審査員同士が相談するような──つまり、点数を僅かに上下させてドラマを演出するような──機会は全く無い。

(これまでに誰もやったことのないような演技が行われて審議が挟まったイリア・マリニンのような例はある。とはいえこれも『所定のルールがどう適用されるか』の確認であって、得点を操作したわけでもその場でルールを定めたわけでもない)

 審査員間の個人差を吸収しつつ、万全確実とまでは言えないが不正をやりにくくする採点プロセス──大まかには次のようなやり方だ。

  • 個人差の吸収・平準化

    • 審査員を少なくとも5人以上のチームとする。

    • 審査チームの交代を禁じる。同じメンバーで全選手を採点する。

  • 不正の防止

    • 審査員同士の相談を禁じる。

    • 各審査員がつけた点から最高点と最低点を取り除き、残りの平均を最終的な点とする。

 複数名を揃えれば、そこには甘めの審査員も厳しめの審査員もいるはずだから、平均を取ることでその差は平準化される。
 また運悪く甘め/厳しめの審査員に偏ってしまったとしても、彼らが全選手を採点する限り順位には影響を与えにくい。
 こうして審査員の個人差は対策されている。

□順序の前後が生んでしまう差

 大会の最初の方にやるか最後の方にやるか──そんなことが点数を左右するべきではない。同じ質の試技であればどの時点タイミングで披露されても同等の点を得るべきで、そうでなければ公平とは言えまい。

 しかしこれは、当たり前のようで難しい。少なくとも印象や感覚に頼るなら順序の差が無視できない点差を生むだろう。

◯参考:聞き慣れたラブソング
 以前から何度も聴いていた曲であっても、『自身が恋愛や失恋を経験したら印象が大きく変わった』ような感じ方はありふれている。
 このように、楽曲に対して抱く印象はその楽曲の質だけでは決まらない。聴く側の心情が違えば共感することも嫌悪することもありえるのだ。

◯他との比較による落差
 印象に頼るなら審査でも同じことが起こる。
 極めて素晴らしい演奏を聴いて感動しているところに少しだけ劣る演奏が行われたら? 恐らく評点は低めにブレるはずだ。実際には僅かな差しか無くても、『感動の余韻を台無しにされた』ような印象がつきまとうからである。

◯コンディションによる落差
 最初の試技から最後の試技まで何時間もかかるような大会なら特に、疲れや慣れや飽きも大きな問題だ。
 もちろんこれらも点数を左右すべきではないが、審査員も人間である。疲労などを無視し続けることは、一時的にならともかくずっとはできない。

 これらの差を放置することは不公平だ。だから競技のルールは対策を設けている。

□順序差の対策

 審査員には、印象に左右されず公平な採点が出来るよう助ける『』が提供される──それが採点基準だ。

 分かりやすいのはクラシック系のコンクールだろう。採点基準は(端的に言えば)楽譜への忠実さ
 正確に演奏するほど高得点で、楽譜から離れた独自色を出せば減点される──それがどんなに感動的な音色であっても。
 このような採点基準が『音楽をつまらなくしている』といった批判はあるし、それも的外れとは言えない(実際『コン技会クールで勝つための演奏』と『コン奏会サートで聴衆を喜ばせる演奏』は明らかに異なる)。

 コンクールの運営側だってそこは承知しているはずだ。音楽のエキスパートなのだから。
 それでも感動は公平に数値化できない。公平性は競技の要であり、(原理的には)観客の喜びよりも優先される。
 だから印象を脇において楽譜を採点基準にしている──そうするしかないのだろう。


◆競技における公平性と平等性

 競技における公平性とは、大まかには次の2点に集約される。

  • 全ての選手に同じルールを適用すること。

  • ルールは事前に公開されており対策が可能なこと。

 ここでいうルールには採点プロセスや基準も含むが、たったこれだけだ。

 注意して欲しいのは、ルールの公平性(同じルールを全選手に適用する)であって選手間の平等性(各選手が持つ差異をならす)ない﹅﹅点だ。この2つは全く違う。

□本質的な不平等

 前の章では3つの差を挙げ、2.と3.には対策が為されることを述べた。

  1. 選手間の差

  2. 審査員間の差

  3. 順序などの差

 残るは1.だが、これについての対策は──無い

 筆者が学生時代にやっていたバレーボールでは高身長が有利に働く場面が多い。もちろん利点ばかりではないし身長だけで勝敗が決まることもないが、『こちらが持っていない強力な武器(高さ)を相手だけが持っている』ようなシチュエーションは常にあるわけだ。
 そして身長の差を埋めるためにハンディを課すようなルールは存在しない。

 選手それぞれの体格は異なっていて当たり前だし、体格以外(バランス感覚など)も含めれば条件を揃えることなど不可能だ。
 個人差は間違いなく存在し、変えがたい前提である。そして恐らくあらゆる競技に共通する──競い合う限り避けようがない。
 それぞれに異なる特性を持った選手を点数順に並べるのだから、競技とは本質的に不平等なのだ

◯(脇道)
 格闘技や重量挙げなどで体重に基づいて階級を分ける目的は、平等性よりも安全性を確保することと思われる。 
 筆者はスポーツの男女部門分けを堅持すべきという立場であり、その根拠は安全性だけではないが、長くなるので本稿からは割愛した。

□公平な不平等

 競技は不平等だ。
 日常的な意味では不平等イコール悪だろう。だから『競技から不平等を取り除こう』と思われるかも知れない。

 しかしその試みは、順位を競う文化の全否定だ。よく『勝負の世界』などとも言われる通り、そこでの倫理観は日常とは異なる。
 不平等そんなことはイヤというほど分かっていて、その上で競うことを選んだのが競技者だ(もちろん個々の選択だから、競技ではなく娯楽やショーを選ぶ人もいる)。

 同時に『競技から不公平をなくそう』なら全面的に賛同する。
 競技のあるべき姿とは、平等﹅﹅なのだ──矛盾に感じられるかも知れないが。

◯例1:フィギュアスケート
 フィギュアスケートで大きな得点源になるジャンプは、単独での跳び方が6種類あり(トウループ/ループ/ルッツ/サルコウ/フリップ/アクセル)、それぞれ難易度に応じて得点が異なる。また選手もそれぞれに得手不得手がある。
 しかしフィギュアスケートのルールは全選手に次のことを求める。

  • 複数種類のジャンプを跳ぶこと。

  • どれを跳ぶかは原則自由だが、アクセルは必ず跳ぶこと。

 アクセルジャンプは最も難易度が高いとされ、それに応じて得点も多い。故にルールにおいても上のように他と違う扱いなのだろう。
 一方で、唯一前を向いて踏み切るアクセルジャンプを苦手とする選手は世界レベルでもそれなりに存在する。

 上に挙げたルールは公平なものだ。全選手に共通という点で。
 しかし平等ではない。アクセルが苦手な選手には明らかに不利であるように、選手間に有利不利を生じさせている。

◯例2:競技場の環境
 どんな競技でも、選手はひとつの会場に集まって競い合う。リモートでは公平性を確保できないからだ。

 そして競技会場の環境は──気温や湿度や時差などは──公平だ。全選手に共通という点で。
 しかし平等ではない。普段過ごしている国と開催国の気温差が激しければ普段のコンディションは発揮しづらいなど、選手間に有利不利を生じさせている。

□公平なら戦い方がある

 競技のルールや競技会場が有利/不利を生み出すことは明らかに不平等だ。
 場合によってはルール改正が望ましいだろう。しかし原則的には問題にならない。競技者の論理は至ってシンプルだ。

勝ちたい。戦略たいさくを練る。練習をする。

競技者の論理

 先述の通り、公平なルールは事前に公開されている。大会がいつどこで開催されるかも含めて。

◯例1:フィギュアスケートでの対策
 
アクセルジャンプを成功させれば何点得られるのか、競技者は予め分かっている。それを踏まえて各自が最適な戦略を選ぶだけだ。

 仮にアクセルを跳ばない場合、他の選手が10点近く稼ぐところで点を得られないので非常に不利になる。しかし失格にはならない。
 普通は勝つために必須で、だからほとんどの選手は跳ぶけれども、アクセル以外でその点差ビハインドをひっくり返せるなら回避しても良い。

◯例2:環境への対策
 高地トレーニングなり気温への慣熟なり、事前にしておけることは幾らでもある。
 そして時差ボケなどの環境要因で実力を発揮できなかったとしても、競技者の論理は容赦をしない。

事前準備も含めて実力の内だし、自身を有利にする備えをしないのは怠慢だ。

競技者の論理

 正論である。日常生活だと少々斬れ味が鋭すぎるかも知れないが、競技界では当たり前の。

◯公平な不平等ゆえに
 勝負の世界は残酷だ。
 他者の得手が輝いて見えるし自身の不得手は突きつけられる。人はそれぞれに違うという現実を浮き彫りにする。
 ただしその現実に、人は無力ではない。

 ネイサン・チェンはジャンプの中でアクセルが苦手だったが、これを克服した。
 ジェイソン・ブラウンはジャンプ難易度かいてんすうよりもうつしさによる加点を追求した。
 順位はネイサンの方が上を行ったが、それは単なる結果である。どちらも素晴らしい競技者だ。こういった素晴らしさは、順位付けを課されたことで残酷かつ不平等な現実に向き合ったからこそ磨き抜かれたものだと筆者は考える。

 そして選手間の条件が平等でない以上、ルールや環境は全選手に共通こうへいでなくてはならない。
 不公平だとどうなるかというと──


◆現実には採用されない競技のあり方

 競技のルールが何より重視するのは公平性であって、平等性や納得感はある意味でないがしろにされている。
 では仮に、それらを公平性よりも上に置いたらどうなるか検討してみよう。

 ──結論から言えば、競技が成立しない。

□平等(?)な不公平

 思考実験としてであれば『平等な』ルールを考えることもできる。
 選手ごとに異なる採点基準を適用するというものだ。

 フィギュアスケートの例で言えばアクセルが苦手な選手にだけアクセルの採点を甘くするとか。『選手ひとりひとりの得手不得手に合わせてルールの方を柔軟に変化させる』と言い表せば、いかにも多様性を尊重しているようで魅力的に響く。

 しかし競技という観点からは全く話にならない。
 冒頭でも述べたように競技の大前提は順位づけで、そのために数値化を行う──なのに、その目的が達せられないからだ。

 例えば複数の人間を〈身体の大きさ〉順に並べたいとする。つまり〈身体の大きさ〉を順列できる数値に変換しなければならない。
 大きさとはなんとも曖昧だが、〈フィギュアスケートの上手さ〉を数値化するよりは容易だろう。体重や身長、様々な指標を使いうる。
 それでも人体は多種多様で、どの指標をどう使うかは悩ましい。

  • 背が高くて細身な人

  • 背が低くて肩幅が広い人

  • 背が高く肩幅もあるが胸板が薄い人

 これらを1列に並べようという試みがそもそも不平等なのだから、完全な正解など無いのかも知れない。

 ただしはっきり言えることもある。
 仮に身長を〈大きさ〉の指標として採用したならば──そのようにルールを定めたなら──全員を身長で比べるべきということだ。あるいは肩幅を〈大きさ〉の指標にしても良いが、それなら全員の肩幅を測って並べる。
 『ある人の身長と別の人の肩幅を比べる』ようなことは明らかに意味が無い

 そして上述の『平等な』ルールがまさにそれだ。ある選手を基準Aで採点し別の選手を基準Bで採点する──それで前者の方が大きな値だったとして、だからなんだというのか?
 これでは順位を付けられない。

□納得感のある不公平

 『納得感のあるジャッジをせよ』と求める声もある。
 しかし公平を旨とする限りは絶対﹅﹅頷けない。むしろ意識的に拒む義務﹅﹅がある

 ある大会で、優勝確実と目されていた世界チャンピオンがいまいちな演技をしたとしよう。
 同じ大会で、これまでライバルとも目されていなかった(言わば格下の)選手が素晴らしい演技をしたとする。

 公平なジャッジの結果が後者の勝利だった場合、納得できない人は多く出るはずだ。
 しかしだからといって、納得感を優先して前者を勝たせるようなことをすれば──演技の質ではなく前評判や人気で評点を決めるのなら──そんなものは競技ではない。

 審査員にとって〈観客や選手やコーチが納得するかどうか〉などという価値判断は、意図して除外すべき歪みバイアスだ。
 『納得されようがされまいが我々はルールに則って採点するだけだ』を貫いてもらわねば困る。


◆まとめ

  • 競技とは順位をつける試みであり、何らかの数値化を必要とする。

  • 公平な(全選手に共通の)ルールで数値化しなければ順位はつけられない。そのためなら時には犠牲を払う。

    • 『楽譜に忠実』という採点基準のために音楽の楽しさに枠を嵌めてしまったり

    • 『前評判を無視して試技だけを見る』ことでファンの納得を得られなかったり

  • 人はそれぞれ異なる特性を持ち、それを1つの数値に変換する試みは本質的に不平等である。競技は公平にはなれても平等にはなれない。

以上

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