句:議論(民主制において)

 民主的な決定過程における議論とは、自身と異論者がどちらも納得できる状態を目指す話し合いのこと。

似て非なるもの

 次のような状況を仮定する。

  • ある国で全国民が関わる意思決定を迫られている。

  • それは新しい社会問題で、現時点では充分な議論が重ねられていない。

  • 幾つかの素案が作られた。一定期間内にこれらを調整し、投票で決定する。

  • どれも選ばない(先送り)はナシとする。

 素案ができた直後に予備調査を行って、A案が9割の支持を集めたとしたら、そのまま本投票に移ってしまって良いだろうか?

民主的でない例(1)

 否である。それは民主主義ではなく多数決原理マジョリタリアニズム
 A案を支持しなかった1割の声を無視しているから。聴こうともしていないから。

 後述する幾つかの条件を満たさない限り、多数決は民主的ではない

 素案同士の支持率がそれほど偏らなければ、多数決原理では数の奪い合いが起こる。理非を含める議論も行われるだろうが……買収や暴力や脅迫もはびこるだろう。  なにしろ多数決原理は数が全てなのだから。各員が何を思ってそれぞれの支持を決めたかなど、まるで気にしない思想なのだから。

 プロセスなんか気にしない、結論が全てだというなら……遠からず、意思決定の手続きに価値を置く民主主義イデオロギーは捨てることになるだろう。

民主的でない例(2)

 本稿の主題は議論のあり方なので、暴力的手段は脇に置くとして。

 議論をする前からAの支持率が9割で、本投票でもAに決まるだろうことが明らかだとしても、それでも議論は必要だ。

 わざわざ手間暇かけて議論などするのは何のためか。  Aの支持率を10割にするため、ではない。その思想は全体主義と呼ばれる。
 結果的にいずれかの案で全会一致することがありえるとしても、それを目指すのは違う。"みん" が不揃いなのは当たり前の前提だ。

民主的でない例(3)

 ひとつのオレンジをふたりの人間で分けたいとする。この問題に『きっちり2等分にするにはどうしたら良いか』とか『片方が切ってもう片方が選ぶ』といった方向で解決しようとする考えを平等主義イガリタリアニズムという。
 悪いとは言わないが民主的ではない。何故なら民主主義の第一歩であるべき自己決定を軽んじているからだ。

 まずはふたりに訊くべきだどうしてオレンジが欲しいのかと。
 一方が食べる為の中身(果肉)を欲していて、もう片方がマーマレードの材料(皮)を欲しているなら、双方がオレンジひとつ分を得られる。2等分など馬鹿馬鹿しい。

 現実の問題でここまで綺麗に解決できることはまず無い。分けるべきオレンジはもっと多種多様で、それを欲しがる人も同様だ。
 この例から得るべき教訓は『勝手に決めるな』ということ。

  • オレンジのどこにどれだけの価値を見出し

  • 別の部位をどれだけ軽視するのか

 それらを他人から決めつけられるのは気に入らない・・・・・・。こういった自己決定を可能な限り尊重するこころざしを民主主義という。

 一律に『同じ重量なら誰にとっても同じ価値を持つはずだ』なんて、それで良いならAIにでも丸投げすれば済む。

目的意識の確認

 オレンジの事例を踏まえれば、元の状況に戻っても『議論』の注意点を理解しやすいはずだ。

違う、そうじゃない

 例えば予算や経済問題を念頭におく人がA案を選ぶとしても、B案C案の支持者にはそれぞれ別に追求したい価値がある。

(中には、A支持層と同じ価値を重視してA以外を選ぶ人もいる。それは客観的に間違いなので、A支持層と話して転向できれば望ましいだろう。ただ、そうした間違いに囚われる人がそれほど大勢を占めるとは考えにくい)

 BやCの支持者に『それらの案では経済的にこれだけの損失が〜』などと述べたところで、それはオレンジの皮が欲しい人に果肉の価値を説くようなものだ。響くわけがない。

見えにくい価値

 違う案を支持する人(異論者)は価値観が違う。欲しいモノが違う。 他人なのだから当たり前だ。
 『そんな相手と何を話せと言うのか』と重い気持ちになるかも知れないが、それは色々と筋が違う。そんな暇はない。最初にこう仮定したはずだ。

  • ある国で全国民が・・・・関わる・・・意思決定を迫られている。

 価値観が違って話の通じにくい相手と、『ひとつの決定に従わなきゃいけない』のだ。それが過酷な前提である。だって投票で決められたことに従わなければ犯罪者になりかねない。
 その結論から逆算しよう。『決定までに何をすれば納得して従えるか』?

 オレンジの果肉を重視するA案で、皮を捨てる計画になっているなら、その意図を問わねばならない。できる限り加工して利用することにすれば皮派は喜ぶだろう。
 これは果肉派と皮派の双方にとってプラスになるはずだが、この改善案が果肉派から出てくる可能性は低い。皮派が重視するモノは皮派だけが知っているのだから。

 だから異論者との対話は必要とされる。

 A案の支持率が9割であっても。9割の支持者達には気付けない価値が何かしら見過ごされているから(全部拾えてるなら支持率は10割になってる)。

 果肉派の視野が狭いとか頭が悪いとかではなく、異なる価値観の視点は他者からしか得られないものだ。
 対話を拒んでいれば、皮派は果肉派への怒りや怨みを募らせてしまう。そんなことは果肉派も望んでいない。

一般化してまとめ

 他に、例えば果汁派などがいると果肉派との折り合いは難しくなる。絞りきった残りを渡しても果肉派は怒りそうだし。
 この場合は他の果物で調節するなどが考えられる。果肉派の中にも『レモンの果肉は要らないから果汁派に譲ろう』などの意見があるはずだ。

 ――もちろん果物や果汁というのはものの喩えであって、現実では『譲りたくないモノを確保するために優先順位の低いモノで相互に取り引きをせよ』ということ。少数派は我慢を強いられるだけ&多数派は権利を貪るだけ、などの不平等は認められない。
 そしてその優先順位は本人だけが知っている他人の順位は教えてもらうしかない

 新しい社会問題で、現時点では充分な議論が重ねられていなくて、素案ができたばかりの段階では、支持率の分布以上の問題がある。
 お互いを全然認めていないことだ。

 A案支持者にはB案C案の利点が分からない。利点が無いようにも思えるから、『Aだけを支持し他を蔑む』ような評価になりがちだ。もちろんBCもそれぞれ同じようなことを思っている。
 こんな状態で決を取ったとして上手くいくかという話で。

 理想は『好みなのはAだけどBCの良いところは分かる』そして『多数決で決まったならBやCにも従おう』というスタンス。

 多数決の結果にはちゃんと従おうという納得
 それ抜きの多数決を民主的とは言えない。

 そういう状態に少しでも近付けるプロセスを、議論という。


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