公共スペースのエレベーター利用:“優先”“ゆずりあい”よりも優先して欲しいのは

 先月から公共スペースのエレベーター優先利用に関する話題が盛り上がっている。
 その話題を追いかける中で、ダイレクトに関連する署名募集がchange.orgで行われているのを知り、拝読した。


【車いすやその他交通弱者のエレベーター問題を環境の整備で改善しよう!】 国交省にシンボルマークと優先表記の大型化を求めます


 『シンボルマークと優先表記の大型化』。
 後述する理由により、筆者はこの提起内容に賛同しない。
 ただし次の部分には心底同意である。

 車いす使用者が抱えるエレベーター問題は、社会インフラの不備であり、行政が解決すべき問題です。インターネット上で無用な対立や不毛な論争が繰り返されても、なんら解決できません。

上記の署名募集より

 全くもってその通り。
 特にこの方個人への攻撃的言及や無関係な要素(外見など)への口出しの類は、弁護のしようもない。

◆賛同しない理由①

 上の提起が前提にしている問題の認識、ならびに提起している解決手段は、実態とマッチしていないと考える──つまり、以下に引用する解決案を実現しても、状況はさほど変わらないだろうと予想するから。

提起内容の整理

 一目見て[エレベーターでは車いす使用者・障害者を優先]であることがわかるようにすることが、本問題の解決ための大きな一歩になります。

同上

 [見てすぐわかる表示]や、大きなシンボルマークと大きな優先の表記です。視覚的な[ゆずりやすい・ゆずられやすい環境]の整備が急務だと考えます。

同上

 上記の解決案は次の調査を基にしているという。

  • 内閣府による『公共交通機関利用時の配慮に関する世論調査』(リンク

  • 国交省による『心のバリアフリーに関するアンケート』(PDF

 これらはいずれもアンケート調査である。つまり、エレベーターなどを利用する人の行動や意識を本人の自覚から答えた結果だ。

 しかしながら、アンケートという調査手法は適切だろうか。筆者は車椅子生活者としての(申し訳ないが個人的な)観察に基づいて、怪しいと思っている。

 駅などを利用している最中にどんな意識で行動しているのか、健常者の皆さんはそれほど自覚的ではないのでは?

個人的な体験と観察

 筆者が一人で(つまり介助者なしで)大きな駅にいるとする。
 その様子を端から見たら『道が分からないのかな?』と思われるかも知れない。かなりキョロキョロしているから。しかし迷っているわけではない──単にそうしないと危ないだけだ。

 車椅子の存在は歩行者の視界に入りにくいので、他人とぶつかりそうになる可能性が高い。左右を繰り返し見て、自分の進路と重なりそうな人を予測して、こちらに気付いてくれているかも注視して……かなり警戒したまま行動している。
 その視点から言わせてもらえば、車椅子生活者と同じような警戒度で公共スペースを使っている人はほとんどいない──少なくとも健常者には。
 小さなお子さん連れの方は子供に注意を払うだろう。それに近い神経質さを、車椅子生活者は広く周り(主に進行方向)に向けている。

 つまり、反感を買いそうな表現になるが、ほとんどの人は“ぼーっと歩いている”。歩きスマホの人もそうでない人も、単身の車椅子生活者と比べれば注意散漫だ。
 ──それは治安の良さと言えなくもないし、『誰もが同じようにピリピリしろ』とまで求めるつもりは無いが。
 ともかく警戒度や安全意識に隔たりがあることは恐らく間違いない。

本当に『優先だと気付いてないから』か?

 筆者の主観において、エレベーター等を譲る気配も見せないような方は、とびきりぼーっとしている。それはまるで『流れに乗っている』かのようだ。
 電車に乗ればスマホを眺めていても目的の駅に着く。それと同じで、電車を降りても人の流れに乗って次の目的地へ向かう感じ。

 だから例えば『エレベーターに隙間があれば(近くに車椅子利用者がいても)詰める』ような行動も、習慣によって身についた半自動的な応答であって一々考えての行動ではないように見受けられる。
 車椅子利用者への悪意などはそれほどなく、というか見えてすら居ない。仮に視界に入っても頭には入っていない

 電車に乗っている時と同じだ。彼らは自分の脚で歩いているようで、目的地に着くのを(言わば)ただ待っている。
 〈受動的な移動〉とでも呼ぼうか。
 能動的には、別のことを考えているか何もしていない(頭を休めている)か……ともかく、その時その場(=公共スペース)で起こっていることに対しては、良くも悪くも何も考えていない。何も感じていない。

 譲ろうとしない理由について、筆者は上のような現状認識でいる。

 個人的体験と主観なので、普遍的事実だと断じるつもりはないが……例えば『車椅子の存在に気付いてやってるとしたら酷く意地悪な行いをする人がいて、でもその人はこちらに気付いたら慌てて譲ってくれた』ような経験は何度もしてきた。気付けないのは(不注意ではあるかも知れないが)悪意ではないだろう。
 同様に、『仮に能動的にやってるとしたらあんまりにも人の心が無さすぎない?』みたいな経験も……幾度かはある。

 その内の一部は、その人が車椅子生活者を嫌う故の意図的な嫌がらせだったかも知れない。あるいは筆者が何かして怒らせてしまったのかも。
 しかし全てがそうとは思えないのだ。
 ただ単に、悪意も善意もなく心や思考が動いていないとか、仕事のことでも考えて気付いていなかっただけだろうというケースも多い。
 というかその種の迷惑は筆者を含め誰もが周りにかけている。

 ──そして、そういう行いは自覚されない
 つまりアンケートに表れることも期待しにくい

実現したとして

 提起に沿って、車椅子やベビーカーの優先・専用エレベーターであることを大きく分かりやすく明示したとする。
 それを求める側が期待する反応というのは──

 ここは優先エレベータなのか。なら●●自分の他に車椅子やベビーカーが並んでいたら譲らないといけないな。だから●●●後ろを振り返ってそういう人が居ないか確かめよう

期待される反応

──およそこんなところだが、恐らく大多数は『周囲を見回す』という行動に繋がらない(これができる人は今でも譲ってくれているように思う)。
 受動的に移動している人というのは──

 ここは優先エレベータなのか。ふーん

筆者の想像する反応

──これで終わりだ。興味の薄い車内広告を見た時などと大して変わらない。
 この場でのことは何も考えていないのだから、『なら』とか『だから』といった能動的な気遣いや複雑な判断を期待しても概ね無駄に終わる。

◆賛同しない理由②

 『じゃあどうすれば解決すると思うか』と問われそうだが、筆者はそもそも優先エレベーターという取り組みにあまり積極的ではない。……恩恵は間違いなく受けているので、微妙に批判しづらい立場ではあるのだが。
 それでも現状とられている方針は、筆者の考える最善からはかなり距離がある。

 (筆者個人としては)譲ってくれなくて良い。“優先”扱いは不要だ。
 普通に『順番を守って乗る』のがベターだと考える。

 そこで延々と待たされるとしたら、それは『先に待っていた人から先に乗る』というルールを守らない横入り・順番飛ばし行為が悪いのであって、ルールの不備ではない。

“優先”の問題点①

 『車椅子生活者に順序を譲る』ことの何が不味いかといえば差別的な点だ。
 健常者と障害者の差別、ではない●●●●『外見で分かる障害者』が受ける優遇を問題視している──すなわち、『見た目に分かりにくい障害者』が受ける冷遇を。
 障害の度合いなど見た目では分からないのだから、これは不当な優遇/冷遇である。一種の外見ルッ差別キズムと言えよう。

 筆者が車椅子に乗っていることは見れば分かる。譲って頂くことも多い。待機列の一人が言い出せば他の方もたいていは避けてくれる。
 その際、見た目には分からない障害者の方の順番を抜かしてしまうかも知れないのだ。
 それは誰かに説明する義務などない機微情報なので一人一人に問い質すわけにもいかず、原則的にお言葉には甘えるが、いつも心苦しい。

 はっきり言えば、譲らないで欲しい。
 さっさと順に乗って列を消化してくれた方が筆者は助かる。

“優先”の問題点②

 そもそも、エレベーターは車椅子とベビーカー専用では●●ない●●。高齢者や妊婦、怪我人や急病人にも認められているはずだ。
 となると、『エレベーターを使うべきかどうか』の判断は本人にしかできない。見た目には健康そうでも、ヘルプマークやマタニティマークをつけていなくても、突発的な体調不良に苦しんでいる可能性はある。
 そういう人に『私は困っています』の見える化を強要するのか? もしくは車椅子などの『見える障害者』に道を譲れと? どちらも冗談ではない。装うことも遠慮もなく、必要ならばエレベーターを使えばよろしい。自身の健康や安全のために──それこそ優先すべきものだ

 理想や理念として言えば、そういった人のために設置されたエレベーターである。
 実際にはそうでない(エレベーターに乗らなくても困らない)人も並んでいるのだろう。それは否定できない現実だ。
 しかし見分けは付かないので、現実的な落とし所として『列に並んでいる人達は全員、それぞれの事情でエレベーターに乗る必要を感じてるんだ』と思うことにしている。そうするしかないし、事実そうである可能性もゼロではないし。

 ……だから譲って欲しくはない。

 貴方はご自身の体調を鑑みてエレベーターに乗るべきと判断したんでしょう? なら他人に譲ってないで、しっかりご自愛ください。

“落とし所”に沿ったナラティブ

 もっと露悪的に言えば、他人に譲れる程度に心と身体に余裕があるなら、最初からエレベーターに並ばないで欲しい。

 譲るとか譲らないといった判断には、『誰が最も優先されるべきか』という順位付けが必須であるが、そんなことは不可能だ。外見からは判じえず、話し合いで優劣をつけるべきでもない。
 それに比べればまだ、先に待っていた人から順に乗る方が公平性が高いだろう。問題が無いとは言わないが、『かわいそうランキング』よりはマシと考える。

“優先”の問題点③

 以前に『障害のモデル化feat.社会モデル』でも述べたが、筆者が理想とする障害者の受け入れは『お客様』ではなく『同居人』である。
 エレベーターの例では『順序を譲って欲しい』とは思わないし、『順序を譲らなくてはいけない』と思って欲しくもない。

 お客様ポジションからでは特権的なコミュニケーションしかとれないからだ。相互理解を目指すならはっきりと邪魔な障壁バリアになる。

 心のバリアフリーでは、相互に理解を深めようとするコミュニケーションとして「まずは声をかける」ことが求められます。しかし、その[声かけ]こそがバリアとなります。

冒頭の署名募集より

 確かにそうしたバリアはある。
 しかし現状、健常者側がこのバリアを感じるのは自然な反応だろう。声をかけてしまえば断れない(かのような空気がある)のだから。

 〔たとえば〕眼鏡をかけた誰かから『(遠くの小さな文字を指さして)あそこに何と書いてあるか教えて』と頼まれたとしよう。
 その時、堅苦しく『思いやり』などと考えるだろうか?『目の悪い人の頼みなんだから断っちゃいけない』なんて強迫を感じることは少ないと思われる。

 一方、車椅子の人間が何か頼むと強制性が生じがちだ。断りづらい・断ってはいけないと感じさせてしまう。

拙稿『障害のモデル化feat.社会モデル』より

 そんな相手と関わりたくないのは極めて自然な心情である。なのにエレベーターなどで盛んに『ゆずりあい』『思いやり』と訴えかけてきた。
 それは不可避的に次のような結果を招いたのではなかったか。

  1. 心理的バリアが厚く高くなる

  2. コミュニケーションの頻度が減る

  3. 相互理解は浅くなる

  4. 不満は水面下に蓄積する

 どちらも得をしないし、より損が大きいのは障害者の側ではないか、と。

 まずはコミュニケーションのハードルを下げることだ。お客様扱いのオモテナシ(を強いること)はバリアとして作用してしまう。
 この観点からも順番通りの方がベターと考える。

◆まとめ

  • “優先”“専用”表記を更に目立たせる提起に賛同しない。

    • 理由①:実現しても譲ってくれる人は増えないと考えるから。

    • 理由②:実現すれば心のバリアはむしろ高まると考えるから。

      • 話す機会の少ない相手を理解できないのは当たり前。心のバリアを緩和したければ、時には雑な扱いを受けることも覚悟でコミュニケーションの機会を増やすしかない。

  • それはそれとして、主張や意見に関わらず、個人攻撃や誹謗中傷をしてよい理由は無い。

以上

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