句:身体性

 身体性とは、身体が持っているある種の性質で、主に観る側の認知に影響するものを指す。
 言い換えるなら以下のような言葉が挙げられる。

  • 身体らしさ

  • 生身感

  • 相手が "そこにいる" 感覚

  • 情緒的反応が引き出される特徴

まずは感覚的なんとなくな例

 美術館や博物館の館内で、《←順路←》のような案内を見かけることがある。
 あるいは係員が立っていて、「こちらへお進み下さい」と案内してくれることもある。
 この2つは、伝えている情報としてはほぼ等価だ。次に進むべき方向を教えてくれるだけである。しかし多くの人にとって、感覚として等質ではないだろう。
 こういった状況を隔てる感覚ちがいを身体性と呼ぶ

(このような感覚は主観的なばかりで科学的ではないと思われるかも知れないが、人間が錯覚や思い込みに左右されるのも客観的な事実である。『人間にはこう感じられる』という主観を分析する学問を現象学という)

 身体性は、生きた人間の身体に見られる性質のひとつだが、生きた人間の身体だけに見られるわけではない

 上の例で係員としたところが、Pepperくんのような明らかに人ではないロボットや、平面のディスプレイに表示された写真やアニメーションに置き換わっても、やはり来館客は《←順路←》という無機的な掲示には感じない何かを見て取るだろう。それはPepperくんや図像に身体性を見出しているといえる。
 非常にデフォルメされた、もしくは実在しない生き物をモデルにしたキャラクターにも身体性は感じられるし、天然の岩石や空の雲などがたまたま生き物らしく見えることもある。

身体性の効能キキメ

 このような性質は何を招くだろうか。
 上の館内案内の例では、人間味とか温かさとか、どちらかといえばプラスの効果を期待できそうだ。
 しかし必ずしもプラスばかりではない。伝達される情報が『次に進むべき方向』ではなく、今度は『見る者にとって極めて不愉快な内容』だとしよう。侮辱的で腹立たしく、思わずその掲示物を剥がして破り捨てたくなるようなそんな内容が、無機的な情報として示される場合と身体性を伴う場合とでは、どう違ってくるだろう。

  • 腹立たしさ+
    人間らしさがある故に、余計にカチンと来る。そういう側面もあるはずだ。

  • 大人しさ+
    逆に、身体性を見出した故に無機的な掲示物よりも破りづらく感じてしまい、具体的な行動が抑えられることもある。

 (他にも幾らでもあるはずだが)これらの内、どれかひとつが発生するとは限らない。身体性が呼び起こすのは非論理的で情緒的な反応だから、互いに矛盾するような作用(攻撃性と抑制性など)が同時に生じることもある。

お詫びの身体性

 何らかの事故やミスで誰かに損害を与えてしまい、謝らなければならないとする。
 この時、再発防止策や金銭による賠償も重要だ。しかしそれは《←順路←》に似た無機的な謝罪である。被害者にとって身体性を伴わない。そういった謝罪は、被害者に『謝られたが湧きにくい。
 だからそれだけだと、(とても厳しい再発防止プランを実施しても)『今回の件をちゃんと謝れ』だとか、(たとえ賠償金の額が非常に大きくても)『金で済ませるのか』といった反応になりがち。

 直接または記者会見で深々と頭を下げる様子を見せる行為は、無機的な情報ではなく身体性を押し出す謝罪だ。それが常に上手くいくとは限らないが、『謝られたを引き出す為によく用いられる手段である。

『身体性』を使い慣れた界隈

 最近はVtuberに関する論考やトランスジェンダリズムの文脈で見かけることも増えたが、以前からこの言葉を多用していた界隈がある。
 俳優や脚本家、特に演劇やミュージカルといった舞台芸術畑の人達。あるいはダンサーや振付師。加えて彼らから影響を受ける鑑賞者達も。

 芝居においてキッカケと呼ばれる要素がある。例えばある役が、何者かの攻撃を受けて傷を負い苦しむというシーンがあるとしよう。
 この時、当たり前だが役者が実際に傷付くわけではないし痛みも出血もない。演技なのだから。だから稽古中などに、演出家がパンと手を叩いたらいきなり「ぐあっ!」と悲鳴をあげるようなことも、出来なくはない。
 出来なくはないが、やはり誰かに斬りかかるふりなどをしてもらい、その身体性をキッカケにして演技を始める方が、(演技開始を告げる無機的な情報をキッカケにするよりも)楽である。
 役者としても演じやすいし、観劇者にとっても理解や共感をしやすくなる。

身体性は虚構か?

 以上でみてきたように身体性とは主観的で感覚的な性質なので、純粋理性的な見地から批判を受けることがある。

 身体性と呼ばれているものは、結局のところ単なる情報ではないのか。無機的(とされる)情報に比べて量と密度が多い特別感から特別な名前がついてるだけで、客観的には大差ないのではないか。

よくある疑い

 このような指摘は、19世紀頃には最新の考え方のひとつだった。脳という未知の臓器について幾つかのことが判明し、その複雑さと特別さと打ちのめされ、脳と身体をくっきり区別する身体観に基づくなら、確かにあらゆる知覚刺激はすべて "情報" といえる。
 しかしこれは、認知神経科学の知見からすれば時代遅れと言わざるを得ない。脳の情報処理は、特にコミュニケーションに関する処理は、身体の動かし方に規定コードされているからだ(この点は長くなるので詳しくは別記事を参照のこと)。

 先ほどの批判に答えるならこうなる。

  1. 脳内の神経細胞の一部は、身体的動作と結びついている。

  2. 例えば誰かが、腕を細かく振ってジョギングするような動作をしながら「急げ!」と言った。するとそれを視た人は、たとえ実際には立ち止まっていても、歩いたり走ったりという動作に対応する神経細胞が発火する

  3. 対して、文字や言葉だけで「急げ!」と書いておいても、それを読んだ人には運動野の活性化は起こらない(言語野は反応する)。

 これは感覚的体験ではなく、実験により確認された客観的事実である(詳しくは上掲記事)。

 脳内には、『未使用のはずの運動野まで活性化される現象』と『そうでない現象』とがあることは確認された。故に、前者に対して "単なる情報" とは違う特別な呼び名を与えることには、一定の妥当性が認められると考える。


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