句:アイデンティティ(精神医療・心理学における)

 本稿では表題の通り、精神医療や心理分析などの文脈で用いられる学術用語としての“アイデンティティ”について整理する。“自己同一性”と翻訳されるものだ。
 この語は他の意味でも頻繁に用いられるため、世間で見かける用例には以下と全く合致しないものも珍しくないが、ひとまず範囲を絞っての概説となる。


⚠警告⚠

 本稿は医療にも用いられる用語について紹介するが、医療情報を提供するものではない。また、治療中の方にとっては妨げとなるような表現も後半には含まれるためご注意願いたい。


◆自己同一性

 端的に言えば自己同一性とは、『客観的じっさいの自己と主観的じかくする自己が一致している度合い』である。
 これを理解するには解離性同一性障害(解離性同一症)の病名にもある『解離』という心理が参考になるだろう。

○用語:解離

 (精確性を犠牲にして)短くまとめると、解離とは『自らの体験を自身のものと感じられない状態』を指す。
 ──重大な精神疾患のように思われがちだが、実のところ程度の問題だ。『ごく軽い解離』はかなりありふれている。
解離は心の働きの1つであって全てではない。以下に挙げるような心理はありふれており、本稿ではこちらしか取り上げないが、これとは相反するような心理も人は持っている)

  •  何か大きな失敗が発覚した時につい責任逃れ的な考えを巡らせたり。

  • 『何もしてないのに壊れた』と言ってみたり。

  • 説教されている最中、表面的には神妙に謝りながら内心では夕食の献立を考えていたり。

 『実際に体験していること』がネガティブなその瞬間、それを『自身の体験ではない』ように見做したり思い込んだりする。
 心当たりぐらいはあるのではないだろうか。

 もちろんこればかりしていては社会的信用を失うだろうから良い性質とは言い難い。程度がひどくなって(あるいは自身でコントロールできなくなって)社会生活に支障が出れば治療の対象にもなる。

 が、解離傾向を全く持たない人などまず居ない。この心理そのものはおかしくも間違ってもいない点はご理解いただきたい。

○用語:影

 あえて意地の悪い書き方をするがご容赦願おう。

 “解離傾向を全く持たない人などまず居ない”という箇所を読んだ時、『自分はそんな無責任なことはしない』と反感を抱いた読者もおられることと思う。
 ──その心理は恐らく解離だ。

 人の心はネガティブな事象を遠ざけようとする。それは外界の出来事だけでなく、自分自身についてさえ
 自らのズルさや浅ましさと直面した時、それが否定しえない事実であったとしても、受け入れ難いと感じる心は普遍的なものだ。
(自らの良い面を解離することも無くはないが)

 一人の人間が持つ様々な側面の内、本人が『自分にそのような面はない』と目を逸らした側面のことを、ユングはシャッテンと呼んだ。影は『自己の一部』だが、『自覚する自己像』には含まれない。

 それを受け入れ、自分にはそのような側面もあるとありのまま認識することで、自己同一性は拡張される──『実際の(良い所も悪い所もある)自分』と『自覚する自己像』との一致﹅﹅が上がる。

 このように整理すれば明らかなことだが、完全無欠に100%の自己同一性を備えている人などほとんど居ないのだろう。
 『人は自分自身のことこそ分からないもの』なんて慣用句は世界中にあるのだから。

 損なわれ過ぎれば問題を生じるので困ったことだが、ちょっとやそっと欠ける程度のことは、生きる人間にとって不可避の日常である。

◯ズレては合わせる

 自己同一性とは『実際の自己と自覚する自己像との一致度』と整理した。

 実際の自己/自覚する自己像。
 この2つはどちらも変化を続けるものだ

 例えば『弟妹を持たない人が、学校などで初めて後輩を持った時』を考えて欲しい。それ以前はずっと教わり導かれる立場だったのに、今度は自分が先達としての役割を求められるのだ。最初から上手くできるだろうか?
 少なくともしばらくは『据わりが悪い』はずだ。この初体験が遅ければ遅いほど、自分の柄じゃないとかキャラじゃないといった否定的な感じ方をしやすくなる。

 『こんなのは自分じゃない』

 実際は先輩なのに自己像は後輩。自己同一性が低下する。

 もう1つ例を挙げておこう。
 生まれつき五体満足だった人が、事故や病気によって障害を負ったとする。それまで当たり前にできていたことに一々手助けを求めるような体験はネガティブな反応を招きがちだ。

 『こんな自分でありたくない』

 実際は障害者で自己像は健常者。こちらの例でも自己同一性は危機を迎えている。

 障害ほど鮮明でなくとも、幼年期〜青少年期〜中高年・老年期に至るまで『実際の自己』が変わらない人などいない。『自覚する自己像』も変容を続ける。

  •  サラリーマン一直線だった人が定年を迎えて生き方に迷ったり。

  • 親として子育てを生きがいにしていた人が子供の巣立ちで心のバランスを崩したり。

 普遍的な話で、不可避の困難だ。
 これらを軽視しようというのではない。このような悲嘆から更に重大な危険に繋がることも事実としてあるのだから。
 同時に強調しておく。この危機は乗り越えうるものであり、また乗り越える価値があるものだ

◯自己同一性が高まると?

 解離が進みすぎると(≒自己同一性が低すぎると)社会生活に問題が生じることは既に述べた。医療においてはこれを治療しようと──つまり同一性を高めようとする。ただしこれは、何も社会まわりのためにのみ高めようというのではない。

 身体の障害が治らなくても自己像を改めることはできる。ただ思うだけで可能という意味ではないし簡単なことでもないが、可能だ。

 それを為し遂げて同一性が高まるとどうなるのか?
 実は本人に大きな利がある。そこには先人の歩みが待っているのだ。抽象的・観念的な意味でも、現実的・物質的な意味でも。

 障害者向けのスポーツ用品やアウトドア用品。障害者としての自己像を受け入れるまでは検索もしないし存在すら知らないだろうが、かなり幅広いものが存在している。無ければ作るといったノウハウや実例も数多い。全く同じでなくても似たような困難は過去に誰かが経験したということだ。
 その蓄積を無視し独力で挑むというのは──孤独で、あまりにも困難で、危険を伴う。必ず明るい未来があるとは言えないが、利用するに越したことはない
 ……切に、夜道くなんには導の光せんじんを頼って欲しいと願う。

◯解離による孤独

 そしてこれを利用するための前提条件に当たるのが自己像の受容である──あまりカッコ良く言うべきではないか。人によっては『あきらめ』とイコールだったりもするから。別にそれでも構わないのだから。

 何らかのスポーツに打ち込む人を例に取ろう。この人は本気で世界一を目指している。
 ただし現時点を客観的に評価するとその実力が伴っていない。しかし自分では世界レベルの選手だと自認しているため自己同一性が低い、としよう。
 『この人が自己像を曲げずに実力を伸ばすことで自己実現しても同一性は上がるじゃないか』との考えは間違っていない。定義上は正しい。しかしほとんど机上の空論だ。不可能に近い。
 『今の自分にはこれが出来ない』『これが苦手だ』という自己を解離している限り適切な練習などできるわけがないからだ。逆にそれを自己像として取り込めば、大抵の問題には参考になるトレーニングがある。その知見を全く頼らずに世界に挑める選手など極めて少ない。

 厳しいことを言うが、自己同一性が低いとは現実を見ていない状態である。足りない実力、冴えない自分、耐え難い現実。
 しかし頼りになる先人がいるとすればそれは現実世界なのだ。現実を見据えない限り頼りにはできない。

 現実の自己が解離された自己像は、定義的に他者から理解されない。そこで体験される心理は喜びも苦痛も困難もその人だけのものだ。
 よって現在・過去を問わず他人を頼ることが難しい。何もかもたった一人で直面することになってしまう。
 ──現実の自己と異なる自己像を視ている限りは。
 

◆まとめにかえて

 以上見てきた通り、自己同一性とは完全な形で保たれ続けることなどありえない代物だ。およそ全ての人が常にズレを生じ微調整を繰り返し、しかしそこそこのシャッテンを抱えたまま生きている。

 この意味でのアイデンティティを『絶対に傷つけてはいけない絶対不可侵領域』のように扱うのは、端的に言って不可能だ。
 もちろん(人付き合いにおける良識として)意図的に傷つけて良いものでもないが、傷つける可能性をゼロにすることなどできない。
 だって誰かを『先輩』と呼ぶだけでもその人の同一性を揺るがしかねないのだから。スポーツで誰かを負かすだけでも。もちろん障害を負ったばかりの人が解離している現実を突きつけることによっても(現実をぶつけるだけで自己像がそれに近付くならそんな簡単なことはない)。

 コミュニケーションをゼロにしない限りは──ゼロにしたところで──無くなりはしない。
 人間はそういう不完全な生き物だ。まずはその現実を見つめるところから。

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