障害者の感謝とストレス/効力感の心理と社会運動

(前置き)
 一般に、手助けを受けたなら感謝を示した方が良い(※1)。そうすることは感謝する側にもされる側にも周囲にもプラスの影響をもたらすからだ。
 感謝することにストレスが伴う場合であっても、やはりメリットが上回るように思う。

(※1:ぶっちゃけたことを言えば、諸々のメリットは感謝を示す﹅﹅ことによって生じるので、それが本心かポーズかは重要ではない)

 さて本稿前半の主題は、次のような攻撃的な見解への否定だ。残念ながらこういったものはSNS等で頻繁に見かける。

感謝することにストレスなんて感じない。
感じる人はよっぽど心が狭いか精神を病んでいるんだ。

複数の発言の大意要約

 それは違いますよ、という話。


◆感謝とストレスの心理

 障害者だろうと健常者だろうと、心が曲がってようと素直だろうと、感謝の際にストレスを伴うシチュエーションはある。
 自尊心が傷つく時だ

 ここでは次のような場面を例にとろう。

  1. あなたは重い荷物を運ぼうとしている。

  2. 誰かに運搬を手伝ってもらった。

  3. 作業が終わって「ありがとう」と伝えた。

 この時にストレスを感じないとしてもおかしいわけではないし、感じるべきだと言いたいのでもない。
 但しストレスを感じないのは、この過程のどこかに自己効力感を持てているからだ。

自己効力感〔…〕とは、自分がある状況において必要な行動をうまく遂行できると、自分の可能性を認知していること

自己効力感 - wikipedia.org

 言い換えるとストレスを感じない人は、『自分も力を発揮した実感』がある──ある場合だけを想定している。それを持たない人は沢山いるのに。
 幾つか例をあげよう。

□A氏:ネガティブな健常者

 A氏は身体的には健康そのもので、運搬作業にもしっかり参加した。しかしこのことを、A氏はネガティブに捉えてしまう。

『自分に2人分の筋力があれば、他人様ひとさまの手を煩わせることもなかったのに!』

 こう考えてしまう人は、感謝を示す3.のタイミングで自己効力感が欠け(≒自分はダメな奴だと思い)、自尊心に傷を生じている
 自尊心が傷付いてこころよいという人は滅多にいないだろう。つまり無力感というストレスを抱く

 A氏の考え方がネガティブなことは否定できないが、かといって心が狭いわけではないし、精神を病んでいるとも言えない。

□B氏:運搬に加われない人

 障害があるか体調が悪いか、何らかの理由によって運搬作業に参加できなかったB氏。
 この人にとって、助力への感謝は無力感との抱き合わせである。無力感にストレスを伴うのは当然の心理だ。こちらのケースも、心が狭いとか精神を病んでいるとかではない。

 A氏の例にも言えるが、感謝を述べなかったとしても無力感は既に生じている。タイミングが近いだけで因果関係とは言い難い──『感謝を述べる行為によって更にはっきりと無力を感じる』ような心理ならありえるが。
 つまりストレスを感じるから感謝しないといった論理は、残念ながら当人を救わない。無力感を遠ざけたければ、感謝をいとうよりも別の方策が必要だ(後述)。

□C氏:ポジティブな命令者(参考)

 C氏は運搬作業には全く加わらず、命令または指示だけを行った。作業後に感謝の言葉は述べたが、その際にストレスは全く感じていない。
 C氏が無力感を抱かないのは、直接の運搬作業以外﹅﹅のところで自己効力感を得ているからだ。例えば大きなプロジェクトのリーダーなどは、計画立案や進行管理などに力を割くために雑務は誰かに任せるだろう。運搬には直接関わらなくても『他のところで仕事をしている』という実感を得ている。だから無力感はない。

 悪い方向に戯画化カリカチュアするなら、『に酔っているパワハラ上司』や『で人を操る結婚詐欺師や悪徳ホスト』なども類型的には近い。
 自分が直接やっていなくても、自らの力によってやらせたのだという認識なら、それも自己効力感として(ストレスを感じさせない方に)作用する。


 C氏はあくまで参考例で、障害者に最も近いのはB氏だ。
 障害者が「ありがとう」という時──あるいは言わないとしても──その度に無力感を抱いているケースは少なくない。そしてそのような実感がストレスになることは、障害者ならずとも容易に想像できるはずだ。


◆その心理を踏み越えて

 無力感は誰にとってもつらい。
 これを拭う上での最も望ましい方策は自己効力感を取り戻すことだ。機能インペア不全メントは解消できずともディスアビリティなら越えられることもあるだろう。

機能不全インペアメント
怪我・病気による症状・後遺症として現れる、機能上の問題。中でも短期的な回復が見込めないもの。

障害ディスアビリティ
インペアメントのせいで得られない便益。

拙稿『障害のモデル化feat.社会モデル

 例えば『脚が悪くて階段を登れない』はインペアメントで、『そのせいで2階から上に行けない』がディスアビリティだ。
 脚を治すことが難しい(インペアメントが消せない)としてもエレベーターがあれば上階には行ける(ディスアビリティの解消)。

□筆者:ポジティブな障害者

 筆者は後天的な車椅子生活者だ。
 脚を悪くしてすぐはあらゆる外出が極めて困難だった。しかし車椅子生活に慣れることで、そのディスアビリティは段々と限定的になっている。
 もちろんここには周囲の助けやバリアフリーなインフラがあり、何より車椅子という器物にも支えられているから、人によっては『自分の力ではない』と言うかも知れない──が、他人の認識ははっきり言って無関係だ。客観的にみて自らの力だろうと、A氏のようなネガティブシンキングは自己効力を損なう。

自分に健康な脚があれば、他人様ひとさまの手を煩わせることもなかったのに!

A氏のようなネガティブシンキング

 間違ってはいないかも知れないが、こう考えたところでA氏は2人分の筋力を得られないし、筆者にも健康な脚は戻らない
 それなら同じことをポジティブに捉えた方がマシだ。ストレスも自己効力感も、筆者が自身をどう見做すかに大きく依存する。

自分が車椅子に慣れたおかげで、駅員さんの助けを少ししか借りずに電車に乗れた!

同じ事態のポジティブな捉え方の例

 こう考えられれば筆者は自己効力感を得られて、メンタルは向上し、気分よくお礼も言えるし、助けてくれた人も善いことをしたと思える(※2)。誰も損はしない。

(※2:一般に人助けは善行である──そう感じられないとしても。善行だと感じられればその方がお得だが)


 ただし、言うまでもなくディスアビリティにも色々あるわけで、障害者の一般例として筆者は不適切だ。『車椅子の障害者』は見た目に分かりやすいから典型的に思えるかも知れないが、それは印象に過ぎない。

〔社会モデルに沿った環境整備を進める内に〕私たちは誤った考え方に流されてしまったことがある。「典型的な」障害者は、健康で、病弱でなく、物理的にアクセスできる環境のみを必要とする⾞椅⼦の若い男性であるといった考え⽅だ。

‘Impairment and disability’ (2001)/J. Morris・筆者拙訳

 そこで次は、もっと重い障害を抱える人の自己効力感について考える。

□D氏:限定的な労働者

 D氏は、例えば筋萎縮性側索硬化症(ALS)のような難病の患者であり、社会生活への参加に多くのバリアがある。それは自己効力感を得る機会が乏しいということ。

 とはいえゼロではない。
 ここでOriHimeオリヒメというロボットを紹介しよう。D氏のような人でも、自宅のベッドの上からネットを介して遠隔操作できるものだ。

 遠隔操作ロボットが店員をするOriHimeカフェという取り組みも、以前はスポット開催だったが現在は日本橋に常設されている(開店状況などは公式アカウントを参照されたし)。

 OriHimeによる接客サービスは、生身の店員と等質なものではない。ロボットであることは確かだし2023年時点の技術レベルではスピード等の面ではっきりと劣る。
 が、それは問題ではない。
 筆者が車椅子に慣れたことをポジティブに捉えたのと同様に、『自分はOriHimeさえ使えばカフェの店員として働ける』という自己効力感を従業員(D氏)が得ることこそ重要である。

(利用客からすれば、ロボット店員が嫌なら他のカフェを選ぶだけの話)

 健康な方には想像しづらいと思うが、寝たきり生活では自尊心が損なわれる機会が極めて多い。限定的であれ条件付きであれ、自己効力感を得られる機会は本当に貴重なのだ。
 そして、『何らかのツールでディスアビリティを乗り越えて無力感を振り払う』というアプローチは実に建設的だ。

 ──以下のようなやり方に比べれば。


◆その心理を踏み越えない場合

 無力感は誰にとってもつらいから、自己効力感を得たい。
 そして障害ディスアビリティ越え﹅﹅ずに﹅﹅自己効力感を味わえるケースがある。

 社会を動かすこと、だ。

□用語

 障害を考える上で、「個人モデル(医療モデル)」と「社会モデル」という枠組みがある。以前に本noteでも触れたので、要点のみ抜粋しておこう。

〔個人モデル=医療モデル〕
例えば脚を骨折して歩けなくなった人に、適切な治療を施してまた歩けるようになってもらう。このようなアプローチを病理モデルまたは医療モデルと呼ぶ。
このモデルの大きな弱点は、医療には限界があることだ。

〔社会モデル〕
現代では医療モデルに囚われず、社会と生活空間のデザインによる解消が試みられている。
患者当人を治せなくても、社会の側(都市計画や建築物の設計など)で対処しようとするのが社会モデルだ。

拙稿『障害のモデル化feat.社会モデル』(再掲)

 この2つのモデルについて、次のように説明されることもある。

障害者が様々なことを自分でできないのは障害者自身がもつ「障害」のせい﹅﹅であるという考え方を、障害の「個人モデル」という。
〔中略〕
現在の社会は健常者を基準につくられている。そのせい﹅﹅で障害者に負担をかけている〔…〕これが「社会モデル」の考え方となる。

日本で車椅子利用者バッシングや悪質クレーマー呼ばわりがなくならない理由』 - newsweekjapan.jp

 このような理解には問題があると筆者は考える。傍点を付した『〜のせいで』という部分だ。
 障害福祉の考えは『誰のせい』という責任論を排除する。排除しなければどうなるか、考えても見て欲しい。

  • 横断歩道を青信号で渡っていたら酒気帯び運転の車にはねられて障害を負った被害者・E氏

  • E氏をはねた事故でこちらも障害を負った酒気帯び運転者・F氏

 それぞれに抱く感情は全く違うだろうし、F氏は法による裁きを受けるべきだが、障害福祉においてはこの2人の扱いに差など付けない。付けてはならない。

□誰のせいかは無関係

 義務化される合理的配慮でも、障害の原因や経緯によって扱いを分けろとはなっていない。

 もっと言えば、法に定められた障害者であるかどうか(何らかの障害者手帳を持っているか)すら、合理的配慮を受ける要件ではない。『あれ﹅﹅困っている人にはできる範囲の配慮をせよ』と定めている。
 誰のせいかなど関係無いのだ。福祉は人権の問題イシューであり、人権は善人にも悪人にも等しくある。

 善し悪しや責任の有無を問う考えは障害者にも不利益をもたらす。上のE氏(ひかれた歩行者)には道路交通法上の責任は一切無いけれども、『あの時ちゃんと左右を確認していれば』『私の不注意のせいで』と自責してしまう心理は実にありふれている。
 そのようなネガティブシンキングがE氏を幸せにすることは考えにくい。誰のせいかなんて、幾ら考えても時間は戻せないのだ。

 にも関わらず、『障害者個々人ではなく社会が悪いのだ』と責任を問う考え方は障害者からも一定の支持を集める。
 自己効力感を得られるからだろう。
 多くの人にとって無力感が不快なように、『社会のためになることをしている』という感覚はおおむね甘美なものだ。

 いわゆる社会運動をしている人が、自己効力感ないし承認欲求のためにそれをしていると断じるものではない。
 ただ『効力感を得るために社会運動に取り組むこと』は──すなわち各自の障害ではなく社会をターゲットにするスタンスは、非建設的な落とし穴を抱えている。

□落とし穴1:固定化・目的化

 『自己効力感を得るための社会運動』には終わりが無い。終わってしまったら自己効力感が得られなくなり無力感に陥るからだ。
 だからこのスタンスを取ると、次のようなループにはまってしまう。

  • ある社会問題を解決したら、すぐ次の問題に目をつけないと気が済まない。

    • 世の中のあらゆることを『問題が有るか無いか』で見るようになり、有ると見なしがちな先入観に囚われる──無力感を避けるために。

    • 大した問題の無い物事にも目くじらを立て、他人の楽しみを阻害する。

  • ある社会問題を、解決せずに維持してしまう。

    • 『自己効力感を得るため』が目的なら、『問題を解決せず維持する』は目的に適う方針だ──傍目には目的と手段が逆転しているようにしか見えずとも。

    • (もちろん目的が1つとは限らない)

 すなわち『運動のためのゴール無き運動』だ。受け止める社会からすればまずまず迷惑な話である。
 かといって禁止などは出来ないしするべきでもないが。

 それにしても疑わしくは思う。
 そのような運動は、誰かを幸せにするだろうか?

□落とし穴2:自身を救わない

 社会に働きかけ正しいことをしているという感覚は、恐らく無力感を遠ざけるだろう。その点では当人にとって良いことだ。
 しかし、そもそも運動を始めるきっかけになったディスアビリティはどうか。

 ──そもそも、ディスアビリティはなん﹅﹅だっ﹅﹅のか?
 運動のせいで見失ってはいないか?

 ある車椅子生活者が、某映画館でシートへの移動介助を断られたという。
 その当事者は足腰にインペアメントがあり、ひとりではシートに移れない。このことで損なわれる便益は幾つか考えられる。

◯席への移動そのもの
 これがディスアビリティの主眼であるなら、どんな方法であれシートへ移れれば解消される。
 では、実際に行われた運動(映画館やその経営母体を告発すること)によって席への移動は叶うだろうか?
 ──叶うまい。できるとしても迂遠で時間がかかる。
 本件の場合、映画館側が『これまで通りスタッフが力技で持ち上げる』と決定する可能性はかなり低いし、仮にそうなってもそれが危険なことに変わりはない。

◯(映画鑑賞そのもの)
 『映画が観られればそれでいい』という人も居るだろうが、本件には当てはまらないと思われる。もしそうならわざわざシートに移る必要もなく、最初からディスアビリティが存在しないことになるから、この想定は除外してもいいだろう。

◯望む席での、追加費用無しでの鑑賞
 ただ席へ移れれば良いのではなく、自身で介助スタッフを雇うなどの手間・費用をかけたくない/かけられない。だから映画館側に(無償で)手を貸してもらう必要がある──これが本当の困りごとだった場合。
 そのような欲求が悪いとは言わない。そうしてもらえるなら有り難いことだ。

 が、これはディスアビリティでは﹅﹅

障害ディスアビリティ
インペアメントのせいで得られない便益。

拙稿『障害のモデル化feat.社会モデル』(再掲)

 好きな時に好きな場所で観たい映画を観られるなら素晴らしいことだ。それを欲するのも分かる。が、『自分の望む席で好きな映画を観る自由』など誰も﹅﹅持っていない──インペアメントの有無に関わらず。
 インペアメントによって損なわれたのではなく元々どこにも無い便益だから、これをディスアビリティとは言えない。

 筆者は後天的な障害者なので、健常者として映画を観た経験もあるが……そこには常に何らかの制約があった。

  • 気になる作品が最寄りの映画館でやっていないとか

  • 数少ない上映館が遠くて行きづらいとか

  • やっていても時間が合わないとか

  • 座りたい席が既に埋まっているとか

 こんなことは誰にでもある。
 解決策も色々と考えられるだろう。

  • レンタカーを借りたり

  • 予定を調整して別の日に変えたり

  • 諦めてブルーレイが発売されるまで待ったり

 誰だってそうしている──健常者にも採りうる選択肢と採りえない選択肢があって、各々の事情を鑑みて自分で決めることだ。
 例えばある映画のために遠方まで出かけていったとして、その交通費を映画館に請求するだろうか? その人が健常者であれ障害者であれ、そこに行って観ると決めたのはその人なのに?

 もちろん障害者には特有のハードルがある。健常者とフラットな条件ではない。そこは公的福祉や障害者割引が埋めるべきだろう。
 しかし上で挙げたような制約は、健常者も逃れられない物理的な条件だ。映画館自体をバーチャル空間に移すでもしなければ無くなりはしない。

 もちろんこのことは障害者のせい﹅﹅ではない。ただ、恐らく施設側のせいでもない。
 だから社会の責任を問うたところでディスアビリティは解消されない。

 ──果たして何が望みだったのか?

□落とし穴3:他者も救わない

 運動に携わる人自身のディスアビリティが解消されない(または長い時間がかかる)としても、似たような障害に苦しむ不特定多数の人を救う──そんなロジックも散見される。
 抽象的なレベルでならそういうこともあるだろう。例えば上掲の内閣府リーフレットにある合理的配慮の義務化は、恐らく多くの障害者にとってプラスに働く。
 が、『合理的配慮』の中身は具体的に書かれていない。具体化してしまえば特定の障害者にしかプラスにならないからだ。

すべて幸福な家庭は互いに似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸の趣を異にしているものである。

『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ作/米川正夫訳

 障害者の抱えるディスアビリティは個別に異なり、何を以て解消されるかもそれぞれ異なる。規格化・一般化が難しいからこそバリアは残るのだ。
 ある障害者にとってのメリットが他の障害者にはデメリットになるなんて例も珍しくない。

(逆に言えば、スロープを設けるだけでまとめて解消できる類のディスアビリティは既にかなり減ったのだ)

 つまり、この障害者が快適に映画を観るために必要な方策が実現したとしても、それによって他の車椅子生活者まで映画を観やすくなるわけではない。

 ……社会運動?


◆まとめ

  • 『感謝を示す際のストレス』は多くの人が抱きうるものだ。

    • そんなものを感じずに居られるならその方が幸せな気もするが、感じる人が異常なわけではない。

    • 自己効力感を自然と持てている人はそれが欠けた時のことを考え難いから、分かりづらいかも知れないが。

  • 障害ディスアビリティを乗り越えることで自己効力感を取り戻せるならそれが一番良い。

    • 簡単ではないし常に可能とも断言できないが、不可能と断じることもできない。

    • ものによっては技術や器物が大きな支えになるだろう。

  • 社会問題によって自己効力感を得ることはお勧めできない。誰も得をしないからだ。

    • 障害ディスアビリティは個々人で異なるため、普遍的な対策は抽象的にならざるを得ない。

    • 具体的な解決策は当人だけのもので、障害者個人と周囲(映画館、知人友人、介助サービス等々)との間で随時に対応すべきである。

      • その方が遥かに手っ取り早い。

      • 実現できても当人以外へのメリットは小さい。

    • 社会や世論を巻き込めば、映画館の運営企業などは自衛を意識せざるを得ない。ただ1人の観客として(保身などを考えずに)配慮して欲しかったなら本末転倒なことだ。

以上

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