包括的性教育に対する批判的検討

 包括的性教育C S E(英:Comprehensive Sexual Educationの略)というカテゴリの歴史はまだ浅く、ここに何が含まれるかは時期によって微妙に異なる。

 語義の細かな移り変わりは本稿の主題ではない。
 原点はじまりだけを簡単に踏まえておこう。EUが公開している『Sexuality education across the European Union: an overview(PDF直リンク)』という資料によれば、その思想的な源流はUNCRC(いわゆる『子どもの権利条約』)にまで遡る。

measures to protect children from all types of abuse, including educational measures to avoid sexual abuse

拙訳)あらゆる形の虐待から子どもを守るための措置──性的虐待を避けるための教育を含む

Sexuality education across the European Union: an overview

 現在の包括的性教育にも『子どもを性的虐待から守る』という課題が含まれている──少なくともそう謳われている
 課題の達成度には疑問符がつくし、現在の包括的性教育にはそれ﹅﹅以外﹅﹅のものも多分に含まれているが。


◆前置き

 大まかな捉え方として、『これまでの性教育では教えなかったようなことも教える』のが包括的性教育だと言える。
 そこでまずは、『これまでの性教育』に含まれるものをおさらいしておきたい。

(以下が子供たちに充分伝わっているかという点にも懸念や批判はあるが、本稿の主題ではないため割愛させて頂く)

□(中学生までの)保健体育

 以下はかねてより、学習指導要領に基づいて教科書がカバーしてきた内容だ。

  • ヒトの生殖機能の構造

  • 思春期における性機能や身体全体の発達

  • (主に女性の)生理に伴う体調変化

  • 妊娠・出産の仕組み

  • 性感染症とその予防

 様々な観点から教えて然るべきものであり、これらを『教えるべきではない』とする批判はほとんど聞かれない。
 逆に『教えるべきことが足りていない』とする声はあり、包括的性教育も『アレやコレも教えるべきだ』とする立場である。

□包括的性教育による追加要素

 学習指導要領に基づく中学生までの保健体育には含まれず、包括的性教育には含まれる内容は次のようなものだ。

  1. 避妊や中絶

  2. 性暴力からの自衛(ネットリテラシーを含む)

  3. 人間関係や幸福追求ウェルビーイング

  4. 性交・性的快感・性交類似行為・自慰行為

  5. 多様なセクシュアリティとジェンダー

(冒頭で述べた通り、“包括的性教育”と言った時に上記の全てが常に含まれるとは限らない。しかし2023年現在の用法では多くの場合これらを含むものと観測した)

 包括的性教育に対する批判や拒絶は、おおむね『中学生以下に教えるべきでないことを(保護者の意に反して)教えようとしている』といったものだ。
 具体的には4.のそれ自体5.の思想的偏りが批判の対象である。次章から詳しく紹介する。

 なお4.以外の内容は、現行の学校教育でもある程度は触れられる。1.は高校に入ってから、2.3.5.は保健以外の科目(ネットリテラシーは情報、幸福追求やジェンダーは道徳や総合学習など)と分担・相互補足するような形によって。

 前置きは以上だ。


◆性的快感・性交類似行為・自慰行為

 これは海外の事例だが、学校図書館に置かれたある本が物議をかもした──というより保護者の怒りを買った。直接引用することをはばかられるほど露骨な形で、内容には性器以外﹅﹅を用いた性的な接触まで含まれ、それらをまとめて『気持ちよくて幸せなこと』と位置づけるような書籍である。

 動画の男性の発言はかなり露骨に性的なもので、『公的な場に相応しくない(inappropriate)』といった野次を浴びているが、しかしその発言内容は学校で子ども向けに供されたものを読み上げただけなのである。
 あまりに露骨なので、この騒動を報じるニュース()でも内容をほとんど映していなかったり、あるいはボカシがかかっていたりするほどだ。

 この書籍が日本の教育現場にそのまま持ち込まれた事例は聞かないが、同系統の積極性は見てとれる。例えば『包括的性教育 セルフプレジャー』などと検索して露わになるものがそれだ。ちなみにセルフプレジャーとは自慰マスター行為ベーションの言い換えである。

 このような内容を『いやらしい』と感じる方は少なくないだろうし、『小中学生に教えるなんてとんでもない』という感覚は筆者にもある。
 しかしそれだけ﹅﹅で拒むのでは感情的反発と言われても仕方が無い。性的なものを例外なく遠ざけることにも問題はあると考えるから、より具体的に『なぜ・なにが』悪いのか検討していきたい。

□性犯罪予防の観点

 反発の背景には、冒頭に挙げたUNCRCの“性的虐待を避ける”においてではないか──つまり『性的快感への直接的な肯定は児童を狙う性犯罪者を利するのではないか』という懸念がある。
 『気持ちよくて幸せなことだ』と教わった児童が、座学の次に実体験を求めてしまう蓋然性は一定程度あるだろう。

 これに対し包括的性教育の推進側はこんな反論をするかも知れない。

何が性的で何が性的でないのか、具体的に知らなければ子どもが自衛できないじゃないか(だから教えるべきだ)。

筆者による大意要約

 この論はごく一部が正しく他は間違っている。

 (いやな想定だが)児童が性犯罪に遭ったとしよう。
 本人にその自覚が無ければ被害を訴えない可能性はある。そうすると加害者が野放しになるため望ましくない。物陰で行われた犯罪を当事者が告発してくれる方が(まだ)良い。
 また、児童がその被害を性的なものだったと自覚するところまでは包括的性教育によって実現しうるだろう。

 ──ここまでなら、正しい。
 しかし問題が複数ある。

 まず、性的な行為だったという自覚があれば訴え出てくれるのか? かなり怪しい。なおさら隠そうとすることも充分にありうる。
 これが1つ目。

 更に大きな問題は、上の仮定は被害が起こった後の話だということ。予防や自衛になっていないのだ。
 衆目の届かない場所で児童と大人だけになり、その大人が犯意を実行に移そうとしたら、児童側に自衛のすべは乏しい──使えるとしたら防犯ブザーなどだろうか? それも充分とは言えまいが、少なくとも性知識は盾にならない。
 だから子どもにできる自衛とはまず『そういう状況に身を置かない』に尽きる。この対策において性的な知識は不要だ。

 そもそもそういった自衛は、上で挙げた内の2.(性暴力からの自衛)に含まれる。『性的快感への知識があれば被害を防げる』などという反論は言い訳に近い。

□性嫌悪の観点

 また旧来の性教育にはこんな批判が向けられることもある。

性に対する行き過ぎた嫌悪や拒絶は問題だ。
性的虐待から身を守れても、将来パートナーと結ばれる段になって別の問題を生じる。

筆者による大意要約

 “過ぎたるは及ばざるが如し”という一般論はこの件にもあてはまるだろう。性嫌悪も性愛好も過剰になればどこかに難が出る。
 そして『今の日本はどちらかと言えば性嫌悪寄り』という指摘なら筆者も同感だ。

 なお、過剰な性嫌悪の弊害として筆者が想定しているのは少子化ではない。そういう結果も招くだろうが中心ではない。
 個々人の内面における幸福感や肯定感の問題である。というのも(一部の人は認めたがらないかも知れないが事実として)ヒトの身体は性的な要素を含むからだ。性の全否定はどうしても自他への否定に繋がる。どんなに嫌おうが性的要素は世界から消えない。

 丁度よい塩梅が重要。そこまでは良い。
 しかしこの観点でも問題が2つある。

 1つに、この節で批判しているような性知識は『それがプレジャーである』という誤っ﹅﹅前提に基づく点。
 実際にはそういう時もそうでない時もある。性体験が快く感じられないケースなど有り触れたものだ──それが『正しい』やり方だろうと、愛し合う特定の相手だとしても。
 例えば男性器がうまく勃起しなかったとして、誤った前提に基づけば『やり方が間違っている』とか『愛または魅力が無い』とかいう判断になってしまうが、大間違いだ。単純に『そんな時もある』だけである。
 いつでも気持ちよくなれるなどというポルノじみた嘘を教えないで欲しい。

 また、『丁度よさ』と『納得』は別の価値だ。適切な度合いなら自動的に納得が得られるわけではないし、広く納得されたものが本当に適切とも限らない。
 百歩譲って包括的性教育の内容が『丁度よい』ものだと仮定しても、ちゃんと保護者に説明して納得を得てからにしろという話だ。

 これら2つから来る反発を、包括的性教育の推進派は時に『性嫌悪のみに基づく感情的反発』とか『頑迷な保守のバックラッシュ』とか、地域によっては『宗教極右』とか呼んで批難する。
 しかしなんと名付けたところで嘘は嘘であり、然るべきプロセスを経て納得を得ようとしないのは不誠実だ。反発が生じるのも当たり前だろう。

□学習指導要領(不適)

 既に軽く触れたが、現在の学習指導要領には性的快感について教えるような単元が存在しない。
 ただし『だからそんなことを児童に教えてはいけない』と根拠に据えるのは不適切である。学習指導要領の位置付けを誤解している。

 厚生労働省の『学校における性に関する指導について(PDF直リンク)』という資料によると、例えば〈避妊や中絶〉に類することは高等学校で教える内容だ。
 このことが包括的性教育の推進派から“中学生には教えるなと国がはどめをかけている”と批判されることもある──これも同じ誤解だ。
 昔はともかく現行の学習指導要領は『〇〇を教えるべし』との要求リストであって、『☓☓を教えてはならない』との禁止リストない﹅﹅

学習指導要領には,小・中学校等の義務教育諸学校についてはすべての児童生徒に対して指導すべき内容が〔…〕示されている。〔…〕各学校は,この指導を十分に行った上で,〔…〕学習指導要領に示されていない内容を加えて指導することも考える必要がある。

初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について(答申) - mext.go.jp

いわゆる[はどめ規定]等は,学習指導要領に示された内容をすべての児童生徒に指導するに当たっての範囲や程度を明確にしたり,学習指導が網羅的・羅列的にならないようにしたりするための規定であり,児童生徒の実態等に応じてこの規定にかかわらず指導することも可能である

同上

(強調は引用者。上の答申は2003年のものだが、『学習指導要領が禁止リストではない』ことについて“その趣旨についての周知が不十分である”ともあり、この指針が初めて示されたのはもっと前であることが窺える)

 つまり学習指導要領は、『中学生にも一律に教えるよう定めていない』だけであって『中学生に教えることを禁じているわけではない』、ということ。
 だから(“はどめ”について言えば)包括的性教育の防波堤にはなってくれまい。他の事実を論拠にして批判していく必要がある。


◆多様なセクシュアリティとジェンダー

 本章では性に対する3類型パターンの価値観を紹介するため、以下のような架空の児童を1人想定する。

  • 彼は男児である。

  • 初恋の相手は男の子だった。

  • 友達は男児より女児の方が多い。野球やサッカーよりも裁縫や編み物を好む。フリフリとした可愛らしい服も大好きである。

  • 同級生の一部から蔑まれたり気味悪がられたりして傷ついている。

 この児童に対する反応で3類型の違いを浮き彫りにする。

  1. 古い価値観

    • 『男らしくしろ』と叱責する。

    • 男性が女性を愛し男性らしい装いや振る舞いをすることを『当たり前』とみなす。

    • 時代と地域によっては違反者を迫害や排斥が襲った。現代日本の想定でいうと、攻撃的な同級生の側に同調するなど。

  2. 新しい価値観A

    • 『そういう人もいる』と受容する。

    • 同性愛も服の好みも、個人的な範囲であれば『不道徳や異常ではない』とする。

    • 単なる個人差は侮辱や嫌悪を向けられる理由にならない。そんな扱いをする同級生の方に反省を求める。

  3. 新しい価値観B

    • 『あなたは身体が男の子なだけで心は女の子なんだね』と言う。

    • 『本来の心にしたがって女の子として生きていけば、そんな風に傷つけられることも無くなるよ』など。

 筆者は2.を支持しており、3.には多大な問題があると考える。
 そして包括的性教育でいう『多様なセクシュアリティとジェンダーの肯定』は3.なのだ。『心の性』という観測不能な概念が埋め込まれている。
 だから支持できない。

□個人ではなく規範の肯定

 包括的性教育を推し進める高橋幸子氏によれば、『おしとやかにおうちの中にじっとしてるって感じ』であることが『女性的な心』であり、そうでないことは『男性寄りの心』であるらしい。

心は女性なんだけど、社会でいわゆる、おしとやかにおうちの中にじっとしてるって感じじゃないから少し左側〔男性寄り〕です 

高橋幸子氏(@sakko_t0607)の2022年10月29日のツイート

  これが包括的性教育のいう『多様なジェンダーの肯定』だ。『女性的な心とはこういうものだ』という規範化に他ならない。
 例にとった男児の心を女性のものと定義する──本人の意思を無視して

 上に挙げた『架空の児童』の想定からは彼がどうしたいのか読み取れない。
 彼が自身のことを否定的に捉えていて(いわゆる)男らしさを身に着けたいと望むのか、それとも(いわゆる)女らしさをもっと高めたいと願うのかによって、あるべき対応は違っていて当たり前ではないのか。1.も3.も等しく本人の意向を無視している点で落第だろう。

(本人の意向を出発点に据え、他者との差異/類似を相対的に軽く見る2.は個人主義的と言える。ただし『なんでも本人が望む通りにさせる』わけではない──ir-可逆reversi-ble介入は慎重に行われるべきだ)

 筆者は2.の立場も『ジェンダー肯定』には違いないと思っている。本人が望むなら女装などを止めることはしないからだ。
 もっとも、心のありようなど観測も分類もできないから、彼の心を『女性の心』などと断じることもしないが。

□なんのための規範化?

 包括的性教育の『ジェンダー肯定』は彼の心を女性だという。身体が男性なだけなのだと。

 『男性的な/女性的な心』を規範化することは、普通に考えれば多様性とは逆行する考え方だ。上で例示した架空の男児に『あなたの心は男性のそれではない』『あなたの身体は間違っている』と2つの否定を浴びせるわけだから。
 手術やホルモン注射を勧める場合にはもちろん、勧めないとしても多様性を肯定する態度とは思えない。

 何故そんな態度を取るのか?
 『心の性』を規範化して誰がどう助かるのか?

 筆者には1つの仮説しか思いつかない──証拠などないので少々陰謀論じみてしまうが。
 一応筋は通る説明がこれだ。『包括的性教育は、トランスジェンダリズムを拡げる手助けをするものだ』

 こう解釈すると上の疑問は氷解する。『男性的な/女性的な心』の規範が解体されるとトランスジェンダーという概念は存立できないからだ。
 身体男性で、同性愛者で、女装が趣味の、。こういう人を女性カテゴリに押し込むには『心の性規範』が無いと困るのである。

(脇道:そのような建前すら用意せず、文字通りに『自分は女性だ』と主張するだけで女性扱いを求める事例も多々見られるようになってしまったのは悩ましい限りだが……)

 包括的性教育とトランスジェンダリズムとの結節点は他にも複数挙げられる。

  • 『身体/心/性愛/装い の性』のような複数軸(海外では“ジンジャーブレッドパーソン”として図示されることも多い)によるフレーミング

  • 学術的検討になど到底耐えない、批判的に読めば中学生でも指摘しうる不整合を隠そうともしない点

    • 『誰を好きになるか』も『どんな服を好むか』も普通に考えれば心の側面であって、それらと同レイヤーに『心の性』が置かれている時点で粒度が不揃い。

    • そのような側面に分けられる個々人の心を直線上の1点で表すことなど明らかに不可能。

  • 包括的性教育に対してトランス活動家が賛意や支援を表明し続けていること

 これらの点から、包括的性教育は(トランスジェンダリズムと同様に)科学も対話も通じないのではないかと懸念される。筆者の知る限りでは高橋氏が『心の性とは何か』を説明したことはない。


◆まとめ

 筆者が包括的性教育に否定的な理由は以下の通り。

  • 性的快感を肯定的にばかり描く点

    • それは性犯罪者を利するリスクがあり、予防の役には立ちそうに無いから。

    • 性的な体験を常にポジティブなものとする主張は事実に反するから。

    • 保護者に対する説明を尽くそうとしないから。

  • 肯定される多様性が多様ではない点

    • 結局のところ男女二元論に行き着いており、それが身体基準という客観から内面基準という主観へと劣化しているから。

    • その不可解さをまともに説明しようとしないから──教育を名乗っているくせに。

以上

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