見出し画像

AIが人間的になる以前に、人間がAI的になる

ChatGPTの登場によって、より注目を浴びることとなったAI業界。

以前から、「AIによって仕事が奪われる」「AIによってエンジニアはいらなくなる」と言われていましたね。
よりAIの人間性の再現度が高まり、ChatGPTに関していえば、「ちょっと知ったかぶりをしている人間」くらいには感じてしまいます。

私の知人の中には、
「 人の感情もAIに取り込まれている」
というデタラメなことを言っている人もいましたが、似たような論争はいたるところで見るようになりましたね。
SNS上でChatGPTについて語ることで、ChatGPTに関する知識や情報を持っていることをアピールすることができますし、いろんな使われ方がしています。

「この先AIが人間的になったりするのでしょうか?」という質問を知人から受けました。そのとき、AIが人間的に振る舞うようになるのと同時進行で、人間がAI的に振る舞ってないか、とふと思いました。

ビジネスというものが重要視された偏った世界で、「ロジカルシンキング」という言葉も注目されています。
ロジカルシンキングは最近になってずっと言われているように聞こえますが、そもそもはアリストテレスが提唱し、古くからある考え方ですよね。

「感覚(センス)」や「感情」をできるだけ捨てて、 数字を元に論理的に物事を考える、ということが大切であると、現代の多くのビジネスマンは説いています。しかし、それ自体は、すごくAI的な考え方にも思えてくるのです。
「こうだからこう、だからこう、故にこう」みたいな考え方ですが、こういったロジックツリー、条件分岐、決定木のような発想は、人間よりもコンピュータの得意分野でしょう。

言語学で言うところの「シニフィエ(意味されるもの)」がAIは欠落しています。
意味を数値化するために、たとえば「Word2Vec」という技法が使われていますが、意味はそもそも数値化できるのか、というところも疑問です。特徴量の効能について誤解があるのかもしれません。コンピュータに処理させるために数値化をしているのだと思いますが、人間の持つ「感覚(センス)」とは非なるものです。

「特徴量」を作るということはAIで失敗してきています。
画像認識だと、エッジ検出といって、簡単にいえば輪郭を捉える方法があります。あるいは、「猫」を判断するのに、両眼と鼻の位置関係を三角形で捉え、正三角形にどれだけ近いかを数値化する、みたいなことをします。
おそらくこういった情報の数値化の延長には、思ったような成功はないでしょう。判断するには数値化しかないけれど、人のように判断できる数式は作れていません。

AIに助詞を可視化できるか、悲しさを理解できるか、あるいはAIに意識はあるのか、そういうものは現在では再現できてません。

他者理解は感情の部分と密接に関わること。
このような「感情」または「感覚」をメインテーマにした研究はまだまだ少ないのが事実です。情報処理という段階でまだやることがたくさんあって、「感情」や「感覚」まで辿り着けない。
「感情」や「感覚」はそもそも定義が難しいのです。心理学や認知科学の分野でそれなりの研究成果があって、そこのところに人工知能の研究者が触れている例もあるようですが、まだうまく扱えていないようです。

そもそも、意識や無意識、脳科学、そしてそれに伴うさまざまな分野は比較的新しい分野であり、人間ですらどう機能してるかわからないので、それをAIで再現させて、人間的なAIを作る、ということ自体まだまだ大変な研究と時間が残っていることでしょう。
つまり、よく分かってもないのに、「AIによって人間が置き換わる」という主張は、人類は優れているのだ、という勘違いからくる自惚れなのではないか、とも思うのです。

自然な感覚(センス)をおざなりにするというのは、AI的なのではないでしょうか。

解剖学者の養老孟司さんの話で、

2x = 6 のとき、x = 3である。いやいやxは文字で、3は数字なのだから、x と 3はイコールではないじゃないか。

みたいな話があります。これは理屈や屁理屈ではなく、「感覚」の話です。

自然を見てみれば、木の葉っぱ一つにしたって、全く同じものはありません。色も形も、同じものは一つとしてないのが自然です。

それを「植物」「葉」「動物」などカテゴライズして、同じとする。つまり、x=3 というような考え方をしているのは人間のほうじゃないですか。
これは「0 1の世界」です。つまり、コンピュータの世界。

人間社会の中で、0か1かで物事を進めることは都合が良いことなのかもしれません。
たとえば、「成功する人の特徴は?」みたいな質問に、偉そうに答える経営者の人とかもネットでよく見るようになりましたが、そんなものどんなビジネスモデルで、どんな組織で、その人がどんな性格で、どこで、どんな人たちとやるのがその人に合っているのか、など色々な不確定な変数があって成り立つのであって、0か1で「こういう人は成功する!」みたいなこと自体、稚拙な発言だと思うのです。

ただ、人間の脳は楽を求めてしまうのと、わかりやすい言動に惹かれてしまうので、そのような断定的で無責任な01発言が注目されるのでしょう。

世の中というのはより複雑で、自然や社会も複雑ですが、人間の思考というのは徐々に「0 1」に近づいていっているように感じます。これは仕方のないことなのでしょう。

もちろん人間の強みとされる「創造性」もAIの発展で、より発揮できる未来になるのかもしれませんが、一方で、効率化や合理化が過剰に進み、「0 1」でしか考えられない「感覚(センス)」の欠落した人間が量産されるかもしれません。

自然に触れて、自分の五感でなにかを感じるのではなく、ネットで知ったり、AIから教えてもらった「身体性が失われた知能」が中心の生活が進んでしまえば、人間がAIになる日は遠くないのかもしれません。

AIを研究することは、知能とはなにかを研究することだと思います。
ChatGPTのような優れたAIを研究し、開発していくことで、いつの間にか人類自体がAIになっていた、むしろAIが人間によって置き換わる、みたいな世界だったら、どうなるのだろうとつまらない妄想してみました。




この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?