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アタッチメント障害とHSPが生きにくさとして露骨におれの邪魔をするようになった

ネガティブなことを書くと、周囲の人は避けていくし、付き合うのはめんどくさいと思うだろうし、情緒について裏であれこれ言われるので、書かないほうがいいのだろうが、するとこちらとしては吐き出す場所もなく、誰にも理解も共感もされないので、余計に苦しくなる。

実際、昔の知人はおれが病んでいたことを裏で話題にしていたらしい。
逆の立場なら、「最近元気ないみたいだけど、大丈夫か?」と連絡をするのだが、世の中はなかなか自分の都合よく回ってはくれないらしい。

なんだかおれはかまってちゃんのようで恥ずかしい。

おれと似たような人にとっては共感という救いに、おれのような暗い灰色ではない人にとっては、世の中こういうじめじめした人間がどういう感覚で生きているのかの理解になればと思う。

最初に言っておくが、この記事に結論も結末もない。

Have a good day !

2023年、人生で初めて精神科に通う

さて、落ち込んでいるときほど、人と比べたがるし、その比べる対象が、上手くいっている人になってしまうので、余計落ち込んでしまうという無限ループに陥る。

こうなってしまえば、おれは数日間は機能しなくなる。なにもしたくないし、なにもできない。

幼少期から自分に自信はなく、高校生になる頃くらいまでは、他人が怖かったのでコミュニケーションもあまりとらないおとなしい性格で、人前に出ると泣いてしまうような脆い人間だった。

今こそ、一人でエストニアという国に約5年住んだり、起業したり、さまざまな講演で話したり、大学で講義をしたり、ビジネスコンテストでピッチをしたりと、人前に出ることがむしろ得意なのではないかという感じがするのだが、小学生のときに学校行った演劇では、自分の番がきて舞台に立つと、緊張で泣いてしまって劇を止めてしまうようなこともあった。たまにこういう子、いるよね。あれがおれ。

「また『どうせおれなんて』かよ」
そうやって親に怒鳴られたところで「確かに!今日から自信を持つことにする!」なんてなるわけない。自信がどこかで買えるならどれだけ楽な日常だったのだろうか。

このような自信の無さ、劣等感、自己否定といった性格は、ただ単に自分が内気な人間であると思ってそこまで気にせずこれまで生きてきたのだが、大人になって、生きにくさとして露骨におれの邪魔をするようになった。

明らかに日々が楽しくない。一人テンションが低いと迷惑だろうと思い周囲に楽しいふりをしてしまう、周りの声が聞こえないほど1日ぼーっとして理由もなく絶望している時間が増えた。

鬱に陥り引きこもりになっていた友人がいたので、LINEで状況を相談すると、「風呂とか入れなくなる前に気軽に病院にいった方がいいですよ」とアドバイスをもらった。これにより、2023年、人生で初めて精神科に通うこととなった。

ここまでつらつらと自分のことについて書き、結局おれは、自分を誰かに知ってもらいたい承認欲求の化身みたいだなと、また今、この記事とも呼べない感情スクラップを書きながら自己嫌悪に至っている。

さて、どうしたらいいのか。

反応性アタッチメント障害

精神科の先生には、
「言うとしたらアタッチメント障害と軽度の鬱」
と診断された。

おれとしては、今の自分の状態と状況を専門家に客観的に判断してもらいたかっただけなので、ショックを受けることもなにもなかった。

アタッチメント障害という言葉をこのとき初めて知ったが、心理学用語であり、医学用語ではない。正式な病気とか障害ではないのだが、幼少期の愛着形成に問題があり、「自分の存在価値」が分からなくなったり、他人を信じられず頼れない、自分や他人を攻撃する、自分の評価が低い、感情を出せないといった問題を起こしてしまっていることのようである。

そんなの誰でもあるよって思う人もいるかもしれない。

先生には、
「親御さんは厳しいですか?」
と聞かれたので、大学生になっても男なのに門限があったことや、学校のテストでは100点とって当たり前、90点だと説教が日常だったこと。スポーツの試合で勝って当たり前。勝ってもそんなのは当たり前で調子に乗るなと怒られることが日常だったこと。うまくいっても特に褒められず、うまくいかないと説教されたこと。よく人と比べられたこと。
言うことを聞かないと、気が狂ったかのように怒鳴られたり、殴られたことなど、ある時には包丁で襲いかかってきたこと、他にも例はいくつか挙げたが、総じて成功以外は全て悪いことだと思い込んでいる、ダメだと怒られる、怒られないために行動する、そんな考え方が早期に形成されたのかもしれませんと、自分のこれまでをデータとして先生に提供した。

自分ではよくわからないのだが、そうした経験が、今の「自分はダメな存在なのだ」という考えや行動のベースになってしまっているらしい。

病院からは精神安定系や気分を落ち着かせるための薬、睡眠の薬などを処方してもらい、毎月通って様子を見ていくことになった。正直、効果があるのかはいまだにわからない。

それ以外にも、認知行動療法の本やセルフコンパッションなど、いろいろ勉強してみたが、幸福感は高まらないし、自分を認めることもできない。

幼少期に言語は形成され、性格は20歳くらいまでに形成され、思考や脳は20歳前半、遅くでも30歳までには完成する。それ以降、人は変わることはできない。知識や経験、テクニックを身につけることで立ち回ることはできるが、根本的には人は変われない。

さて、どうしたらいいのか。

どうせ自分には価値がないだろうというギリギリの価値観

劣等感が強い人は、自信がないくせに、自分のダメなところを人の良いところを比べてしまう。

ネガティブな気分、つまりストレスがかかった状態になると、人は簡単にIQが一時的に2, 30下がる。すると正常な判断や思考がさらにできなくなり、凍てつくネガティブが冬の北海道の豪雪のように一瞬で積もっていく。

もう自分では抜け出せないので、雪が溶けるまで可能な限り暖かくして待つしかない。そのうち春は来る。

この感覚は、同じようなHSPや鬱、精神疾患、周囲に理解されなくて暗くなってしまったタイプの人間にしかわからないと思う。
ポジティブで根性があってセンスがない人間に相談したところで、トンチンカンなアドバイスで殴ってくるか、小手先のテクニックで下心見え見えの共感などしてくるので、さらに絶望が増す。

痛みにダイレクトに共感できる数少ない友人と内輪ノリで傷を舐め合うか、共感できる本や映画に出会うこと、これらがおれにとって唯一の処方箋となる。

おれのように「自分には価値がない」と思って生活をしている人間は、例えば、自分の意見やアイデア、行動に、100万円の価値があって、相手のそれには1000円の価値しかなかったとしても、「どうせ自分には価値がないだろう」と思ってしまうので、相手に従ってしまうことが多い。ゆえにチャンスを逃したり、チャンスを奪われる。自己評価が低すぎることの弊害だが、本人にとっての市場価値は低いので、もはや気づいていないことも多い。

特に近年は、強い言葉で強く発信することが求められるし、そこに注目も集まるが、自己評価が低すぎる人間が強く発信することや自己アピールするのは難しい。
むしろメソメソしていることを責められるので、余計に自己評価が下がっていく。

さて、どうしたらいいのか。

自分すら自分の味方ではないという感覚

心の中で自分に対していつも暴言を吐いている。
ふとした時、飯を食い終わったとき、寝る前、朝起きたとき、常に自分を傷つけている。

「自分にいつも向けてる暴言を、他人に向けたとしたらどう思うか?」
「自分のことを他人だと思って接してみてください」
そのような考えを本を通じて知ったが、これはとてもしっくりきた。

他人に対してはとても優しくなれるし、そういう人がおれに似た人には多いと思うが、なぜか自分に対しては牙をむく。だから、自分を他人と仮定して接していけば良いのだと。

おれがこれまでやってきたこと、自分の持ってる力などをノートに書いて、
「ぼくはなにもない価値のない人間なんです」
と言ってるダサい人間に、
「そんなことはない。君はこんなに素晴らしいじゃないか」
と友人を励ますように自分の相談に乗ってみる。それは少しの鎮痛剤になった。

しかし、少し時間が経つといつもの暗い自分が話しかけてくる。自分はダメな人間なのだと。

なにがダメなのかなど大きな塊で捉えて思考パニックするのではなく、書き出して一つずつロジカルに整理してみると、大抵の悩みは大したことではないことに気がつく。
ただこれも、頭で理解することと、感覚的に絶望するのとでは異なり、おれの場合は頭では理解しているが、感覚的には受け入れられないという状況が続いている。

本来自分の最大の味方は自分であるはずなのに、自分の中に自分の敵が常にこちらにヤジを飛ばしているような、そんな騒音の中で今日も生活する。

だから、自分のことを応援できるような人間になりたいと思います。
生きづらいのはもはや個性だと思おう。





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