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両親への未完了の感情との再度の向き合い~最善のタイミングで深く腑に落ちる~


     


幼い私は、無条件に愛されたかった。安心したかった。だから、
「無条件に愛されなければ生きられない」と
思い込んだ、と。
でも、与えられたのは条件つきの愛情だ(と捉えた)から、体験している環境が過酷だと捉えた私が、そこで安心感を得て生きていく為に、
私が生きていく環境は条件つきの愛情の中だと、
私が生きる為にはこの条件つきの愛情が必要なんだと思い、
「無条件に愛されたら生きられない」、と思い込んだ、と思います。


「生きる為に生きててはいけない」という
究極の矛盾を既に心に作っていたからか、
「無条件に愛されなければ生きられないけど、無条件に愛されたら生きられない」
究極の矛盾が重ねて作られてしまった。
だから、
無条件に愛される事に極端にこだわる部分(愛され方の理想を描き持つ事など)と、
無条件に愛される事を極端に恐れ拒絶する部分、
矛盾した両方を持った私になった。
無条件に愛されたいのに、無条件に愛を受け取れない私になって、
心の真ん中の捻れが解けた先日以降、無条件に愛を受け取れる私になった(戻った)、のではないかな...。と思いました。


実際に考えたり感じて向き合っている時、
感情を炙り出される事が自然に起こり、考えるきっかけになりました。
何度も何度も否定ばかりされて、
肯定されないで、
私の気持ちは拒絶されて何度も傷ついた私だったので、
過去のその事に向き合う事は、
また傷つく事を恐れて、本当にとてもとても怖い事でした。


(1人で向き合い  掘り下げ中に)
...なぜ否定ばかりするの...と泣き、
もう否定しないでよ...と  
私をありのまま認めてよ...と泣き、
ありのまま認めてほしい...と泣いた時、
私は両親に無条件に認めてほしかったんだ...と気づきました。(今回の最初の気づき)
私は両親に無条件に認められる事で愛されたかったんだ...と、
頭ではわかっていた事に、再度心深くから気づき直しました。


時間が経過しながら、そうか...
幼少期当時、私は我慢して言わなかったけれど、
私は、本当は、両親に無条件に愛されたかったんだな...、
いろいろ否定せずに無条件に認めてほしかったんだな...と受け止めて、
私は、本当は、
無条件に愛されたかったんだと、
無条件に認めてほしかったんだと、
そういうふうに愛されたかった私だったんだ...と、受け入れました。
掘り下げをしている時点から泣いていました。


愛されたかった私だったんだと、そういう弱い弱い自分だったんだと、降参しました。
幼く弱い私だったんだな...と、心の中にそういう、か弱い自分がいたんだな...と、心から寄り添って、
そんな弱い自分だったけどよく頑張って生きてきたよと。
そう、本当に本当によく頑張って生きてきたよと。
こんな私だけど、これでいいよ、いいんだよと、この私でいいんだよ、この私がいいんだよと、自分で自分を抱きしめて、両方の腕をさすって、
内側の私とこの私、離れる事なくずっと一緒に生きるんだからと、自分で自分に優しく言って聴かせて、
弱い自分を、自分が全部受け入れて全部認めました。
その時、その後、心は軽く楽になりました。
(幼かった私の本音本心に気づいて、受け止めて、感じきり、受け入れた過程)




思考が連鎖しました。
「無条件に愛されたかった」という本音本心に気づく事は、
「=条件つきでしか愛されなかった」
「=無条件に愛されなかった」事を認める事でした。
幼い私がした思い込み。
幼い私にとっては傷つく事実だった事でした。
幼い私は、両親に、無条件に愛してよ!と何度も何度も心から訴えていました。
でも、言わずに我慢した未完了の感情でした。
昨年は、私は大人になった自分の頭での理解で終えてしまっていました。
幼い私の気持ちになって、幼い私の心が傷ついた原因に気づいて、今の私が、当時未完了になっていた本当の感情を受け止めて感じきり受け入れる事が必要だったのに、これは出来ていませんでした。
深く腑に落ちていなかった為に、再度の向き合いになりました。


思い込みを手放すには、頭で理解する事と、
幼い時や成長期に作った過去の未完了の本音本心に気づいて、今の私が素直にありのまま感じきり認める必要があると思いました。
そう出来た時に潜在意識が自然に書き換わって、
私は無条件に愛されていた事に気づきました。


内側の私は、私の心の奥にあった本当の弱さを認めるという事に無意識に抵抗していました。
条件つきでしか愛されなかった、と嘆きながらも、そう思っていたかった。
思い込んでいたかった。
気づきたくなかった。
もう傷つく事を避ける為に。


無条件に愛されていたんだと知ってしまったら、
私は生きられなくなってしまう...と、
潜在的に思っていたから、
なかなか素直になれない私で、
本音本心を認めたくなかった私で、
涙を流して心が抵抗した私がいたんだと思います。
「無条件に愛されないと生きられない」
「無条件に愛されたら生きられない」
と両極端に私に思わせて、
それはどちらも、
私が生きられるように守って来てくれた
私が幼少期にした思い込み 、エゴ、防衛本能...。
私が私を守ってくれていたものでした。



無条件に愛されないと生きられない、
無条件に愛されたら生きられない、
そんな事はなかった。
今はもう、どちらでも生きられるよ...ありがとうね...と心深くから声を掛けました。
私は条件つきだったけど愛された。



思考の連鎖は続きました。
その...、
条件つきだったというのも、私の思い込みでした。
私は私の主観で条件つきだったと感じたけれど、
今振り返っても条件つきの愛情だったと見えるけれど。
両親からしたら条件は条件じゃない。
両親と私は捉え方も視点も違うから、
両親からしたら無条件。という事です。


愛を伝える側の両親と、
愛を受け取る側の私 、
決定的な差、埋まらない溝、ズレがありました。
捉え方、視点、価値観、表現方法などはそれぞれ流。
両親の視点、価値観など  、と
私の視点、価値観などは違う。
という事は、
私の視点、価値観などだけで判断出来ない。愛情も。すべて。


愛を与える側と受け取る側。
伝える側と受け取る側。
両親の価値観からしたら、無条件の愛だったのかも...。そう思いました。
良かれと思ってそう表現したのだから、両親は良いと信じて疑っていないから、そうなのかも。と。
両親なりの愛情だったんだから、
両親と私、それぞれ違う主観なんだから。と思いました。



条件をつけて、
~しなければ生きられない
~しなければ愛されない
そんなふうに思い込んでいたのは私でした。


無条件は、
~しなくても生きられる
~しなくても愛される



例えば職場では、時間内に出来ても出来なくても許容してもらえてる(無条件に愛されてる)。
指定の範囲が出来なくても、そのまま許してもらって、出来ない理由を一緒に探そうと寄り添ってもらえてる(私がそう感じられてる)。
急いだり少し余裕のない私でも、そのまま受け入れてもらえてる。
少し(かなり)変わってる個性だけど、そんな私の話しを聴いて信じてもらえてる。
その事を私自身が信じられてる。
私は他のスタッフと同じように無条件に受け入れられ1人の人として愛してもらっていると、
私が職場の人達からの愛を受け取れてる。


同じように、本来なら両親からの愛を受け取れるはずが、
幼い時に心に大きな思い込みを作って、
もう気づけなくなって、気づかずに、
そのままずっと愛情を受け取れていなかったのはもしかして私。私だったのかもしれない。
そう気づきました。



条件つきだと感じて、私が両親からの愛を信じられなかった。信じられなくなりました。
信じられずに、受け取れていなかったのは私だったんだ。と思いました。
(無条件の愛情というその気持ち≠愛情表現の方法、内容)


私が受け取れていなかった...。
昨年の夏頃にも愛を受け取る事に気づいたはずなのに(note記事 愛を受け取る事 2023.7.28投稿)、
昨年末に、私は愛されていた事にも気づいたはずなのに(note記事 好きでわくわくする事② 2023.12.25投稿)、
私はどうしてまだ、気づかずにいたのだろう。あの時にはまだ深くわかっていなかった。
気づく深度の違い...。そう思いました。
きっとあの時と、その後の気づきがあったから、こうして今、気づけてる。
そして、私はきっと幼い時も、その後も、
ずっともう、そのままの私で愛されていた...って事... ...だよね。と。
ずっと、... 愛されていた。



...  私 、愛されていた ...。
愛されていたし 、愛されているんだ... 。
気づいて、喜びを感じました。




帰る日 / 久石譲      Cateen(角野隼斗)
いつも何度でも / 「千と千尋の神隠し」より




最後までお読み頂き、ありがとうございました。






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