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[ブックトラベル] 神に追われて 沖縄の憑依民俗学

読書は旅なり。
今回は谷川健一著の『神に追われて 沖縄の憑依民俗学』を読んで、遠く宮古島へと足を伸ばしてみる。


すべては読み手に委ねられた

さて本書は、宮古島に生まれた根間カナという女性の成巫過程。いわゆる「神ダーリ」を綴ったノンフィクションである。神ダーリとは何たるかに触れたことのある人にとっては、特段の新鮮さはないかもしれない。実は私もそのひとりだ。

民俗学と呼ぶにはあまりに文芸的なスタイルで、カナの身に起こった出来事が淡々と重ねられていく。緻密な取材には感銘を受けたものの、まるで小説のような読後感に些か戸惑いを覚えた。

そしてこの南島のシャーマニズムを、精神的健康に問題を抱えた人間を「特異な力を持つ者」として受け入れる社会的枠組みだ、という立場で語るでもない。かと言って、神秘性へ過度に肩入れするわけでもない。何とも不思議なポジションで書き抜いている。
確かにどちらかへ偏ると見えないものが出てくるとは思う。あえて一切の分析を挟まずに、何を読み取るかをすべて受け手に委ねたのだろうか。

悔しいかな駆け抜けるように読み終えてしまった私であるが、ひとつ心にとまったのが「神」のあり方だった。

シャーマンになるという「呪い」

沖縄県にある島々は、それぞれ異なる文化的バックグラウンドを持っている。いわば別の国である。
そのためすべての島で同一の宗教観を持つかは浅学につき言及できないが、仮に宮古島のカンカカリヤ(沖縄本島におけるユタと同義)の視点で語られる「神」に琉球弧の宗教的フレームを見出すとしたら、これがなかなか興味深い。
もっとも印象に残った箇所を引用してみる。

 神はきびしい声になった。
「おまえの命はおまえの勝手にできるものではない。私が死ねと言えば、おまえはイヤでも死ぬ。私が死んではいけないと言ったら、おまえは死にたくても死ねない。どんなことをしても、不自由な身体になっても生きている」
 カナがそれでもためらっていると、
「もし私の言うことを聞かなかったら、おまえの子どもの春枝の命をとる」と言い渡した。
 カナはそのとき〈神ならばやるな〉と思った。

『神に追われて 沖縄の憑依民俗学』P.44

琉球怪談で有名な小原猛氏は、多くのユタに取材を行ったことでも知られている。そこから得られたことのひとつに「ユタはなりたくてなるものではない」という事実があるという。同氏の著作物を読み返すと「呪いの一種である」とまで記されていた。
つまりカナが感じたように、神に選ばれることは決して生ぬるいものではない。

あまり明るくない分野なので下手なことは言えないが、このあたりの感覚は日本の古神道との類似性を感じる。
しかし本土で語られる「神」を思い浮かべると、もっと都合のよい存在として扱う人が多くはないだろうか。とりわけ現代では、ちょっとした信仰心の表明で利益を与えてくれる何かに成り下がっている印象すらある。

柳田國男をはじめとする民俗学者が南島を神聖化するのは、こじらせたオリエンタリズムのようで好きではない。しかし彼らが「日本の原風景がここにある」と感じたのが何となく理解できる気がした。
地政学的な厳しさを有する島々であるが、海というある種の防御壁の中で固有の文化を守り続けてきたのだろう。

最後に本書の感想を完結に表すとしたら。
「さあ、それでもあなたは、神から選ばれたいか」

■補記:寄り道の記録

本書を読む途中で、興味が分岐して辿り着いた文献を覚え書き程度にまとめておく。なかなかに寄り道の多い旅だった。

宮古島における「神の相位とその所在性について」 /岡本恵昭https://www.city.miyakojima.lg.jp/soshiki/kyouiku/syougaigakusyu/hakubutsukan/files/kiyou10-6.pdf

成巫儀礼と神口・神語り —宮古カンカカリヤーをめぐって / 福田晃
https://ko-sho.org/download/K_015/SFNRJ_K_015-01.pdf

地域と文化、社会保護としての社会保障 / 高林秀明 https://core.ac.uk/download/pdf/268243288.pdf

なお過去にまとめた沖縄関連本も参考になれば。


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