「人命は地球よりも重い」とマスコミの関係(上)

「一人の生命は地球よりも重い」

貴方はこのフレーズを知っているだろうか?

「人の命は大切なモノだ」

と言う事は自明な事だろう。
ただ、最近は環境意識の高まりで、地球環境に負担となる人間活動全般への批判もよくなされるようになり、環境過激派の一部には

「地球の環境を破壊する事しか出来ない人類が滅亡するのは致し方ない事」
だったり、更に踏み込んで
「地球の為に人類は滅ぶべき」
までいる。

タイトルの言葉は人権意識の高まり、それが広く認識されるようになった事の反映でもあり、戦後民主主義はそれを当然とする教育がなされて来たはずだ。
だが、視点の多様化により、一部の人にとっては「人間のエゴ」を感じさせるものとして否定的に捉えられ得る。
この辺りについて、世の無常を強く意識させられ、個人的には興味深い。

それはそれとして今回は、この「一人の生命は地球よりも重い」が世間に広く知られた切っ掛けと、マスコミがこのフレーズにどう向き合って来たのかについて語って行きたい。


福田赳夫「人命は地球より重い」

多分、今現在の日本において、この表現が一番知られているのが福田武夫総理大臣による発言だろう。

福田赳夫とは

生年1905年(明治38年)、没年1995年(平成7年)の政治家。
東京帝国大学卒業後、大蔵省へ入省。順調に出世し主計局長となり、役人としての最高位・事務次官の一歩手前まで行く。
だが、昭和電工事件と言う大きな疑獄事件に巻き込まれ、収賄罪の疑いで逮捕されてしまう。この環境下で政治家転進を決意し、捜査の結果として福田赳夫は無罪となったが、そのまま大蔵省を退官する。
1952年、第25回衆院総選挙にて初当選。当時は無所属だった。
後に自由党へ入党し、岸信介(きしのぶすけ。安倍晋三のお爺さん)に仕える。

自由党は1953年、鳩山一郎を中心としたグループが離脱し、日本自由党(にっぽんじゆうとう)を作る。元々の自由党は吉田茂が中心的人物だった為、
元の自由党を「吉田自由党」、日本自由党を「鳩山自由党」とも呼ぶ。
鳩山自由党は吉田自由党から反吉田派を切り崩し、中道左派的な改進党を取り込んで「民主党」を結成。
この頃、路線対立によって社会党も右派と左派に分かれて政党活動をしていたものを1955年の総選挙後に再統一して社会党となった
社会党が一大勢力となった事で、自由党と民主党の保守中道2党には、このまま両党が対立を続けると、漁夫の利で社会党が第一党となる可能性への危機感が生まれる。
こうして、自由党(吉田自由党)民主党(鳩山自由党+改進党)保守合同の道を選び、自由民主党が誕生する。
この後、自由民主党が議席数で3分の2を取り、再統一した社会党が最大野党となりつつ、左派政党合計で3分の1を取る状態がしばらく続く事になる。
この政治体制が成立したのが1955年だった事から、これを「55年体制」と呼ぶ。55年体制は1993年まで、およそ38年間もの間続いた。

福田赳夫は自民党内でも当選回数が若い内から次々要職を歴任し、福田派清和政策研究会)を作るに至る。
2000年から2008年に掛けて森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と4代続いた総理大臣は皆、元の福田派である清和会から輩出されている。清和会は今や、自民党内最大派閥となっている。
ちなみに、党内保守色の強い清和会に対し、党内リベラルの一大勢力となるのが宏池会(現在、岸田文雄総理が代表であり、岸田派と呼ばれる)だ。此方は吉田茂の流れを汲む。
余談になるが、麻生太郎は吉田茂の孫であり、かつては宏池会に所属していた。ただ、宏池会の内部対立で河野洋平グループが離脱した際に行動を共にした。麻生太郎の韓国、中国関連の対応は知ってる人で、派閥については余り詳しくない人にとっては、意外な事実だろう。

福田赳夫は1976年12月に第67代総理大臣に就任し、1978年12月までの2年弱、政権を維持した
長男である福田康夫第91代総理大臣であり、史上初の親子2代の総理大臣となった。
また、福田康夫引退で政界入りした福田達夫・衆院議員は康夫の子であり、赳夫の孫である。
数度国務大臣を務めた政治家・越智通雄は赳夫の娘婿であり、更にその次男である越智隆雄も自民党所属の衆院議員である。

余談:河野洋平と言う男

河野洋平は議員外交でタイへ向かった際、飛行機が不調で台湾に緊急着陸したのだが、中国外相との会談時に「私は台湾の空港で一歩も外に出ませんでした(中国は台湾を国として認めていない。そこに配慮していますよ、と言う意味)」とアピールした。
また、台湾総統だった李登輝氏が医療目的で訪日を希望した際、当時外相だった河野洋平は自身の職を辞す覚悟で徹底的に反対した。医療目的と言う明確な理由があるのにこれを拒むのは人道上の問題を孕むのだが、河野洋平は人道的配慮より中国様への配慮を優先したと言う事だ。
台湾との関係改善を強く推し進める麻生太郎と政治的スタンスが近かったとは、にわかに信じがたい。だが、実際、麻生太郎は河野グループの有力議員だったのだ。

ちなみに、中国外交は「中華思想(中華こそ世界の中心であるとの考え方)」に基づき、他国をナチュラルに下に見る体質が染み付いているが、中国に対して阿(おもね)って自国対応を曲げようとするような人物に対して、心の中では軽蔑すると言う。
自分達に都合の良い駒として最大限活用しようとはするが、自身の与えられた職責を軽んじて胡麻を擦るような人間は評価に値しないと見られるのだ。国益の為に徹底的なタフネゴシエーターとして対峙する人物は、共産党としての公式見解で批判の的になったとしても、人物評としては株が上がると言う。
さらに、中国外交では六韜の兵法の精神が見え隠れする。

六韜(りくとう)とは?
古代中国、周の時代の軍師・呂尚(りょしょう)の書とされる。
※但し、呂尚は紀元前1000年頃の人物であるが、後代の研究から書の成立は早くても中国戦国時代末期(紀元前3世紀)とされるので、その時点で歴史的に有名な軍師・呂尚の名を仮託したものと考えられている。
呂尚は「太公望」の名で知られ、よく釣りをしていた事から日本では釣り好きの代名詞として「太公望」が使われる。
また、中国の神仙意識を背景に明の時代(14世紀から17世紀)に成立したファンタジー小説「封神演義」の主人公としても知られていて、此方も日本で小説や漫画の題材にされるなど広く親しまれている。
「六韜」国家の生き残りの為に必要な権謀術数を説いたもので、同じく呂尚の名を仮託した「三略」と共に、国家論、戦争論、外交論として重要視されるようになり、唐(7世紀から10世紀)の時代には呂尚と張良(ちょうりょう。漢を建てた劉邦に仕えた軍師。不思議な老人から渡された「六韜」を読み込み、その知識で劉邦を支えたとの伝説が残る)を祀る「大公廟」が各地に作られた。

時間泥棒・作

「無能な使者は歓待し、成果を与えて自国内で出世させよ。
有能な使者には何も与えず、地位を追われるよう仕向けよ。
そうすれば、自然にその国は衰退していく」

これは六韜でも特に有名な節だ。

河野洋平が親中姿勢を見せ、中国共産党はそれを褒め称える。
河野の中では相思相愛が実現したと思っているだろうが、中国の外交姿勢を考えた時、中国にとって河野は都合の良い駒でしかなく、「無能な使者」認定をされていてもおかしくない状況だ。
また、古代中国の歴史において、目先の利益の為に自国を裏切り敵国に寝返った将や敵を自国に導いた将は、度々恩賞代わりに死を賜る事があった。個人的利益の為に不忠をなすような人間は、敵国にとっても要らないのだ。
このような中国的発想を理解した時、中国共産党の内部的には、河野洋平の人物評価は極めて低いだろう。あくまで私見だが、そう外れていないだろうと思う。

他にも、拉致問題が発覚して北朝鮮への国民感情が極めて悪くなった頃、北朝鮮の食糧事情が悪化した際に、外務大臣だった河野洋平は人道的支援を前面に出し、コメ支援を決定した。
拉致被害者家族会は相手が困っている時ほど、拉致被害者帰国を実現するチャンスであり、コメ支援は行わないよう河野洋平外務大臣との面会で直談判したが、この願いは叶わなかったのだ。
リベラル的発想の強い自民党内のハト派はこのような場面で、相手にとって効くカードを使って交渉しようと試みる頭が無い。
「無条件に優しさを発揮すれば、相手側もそれを意気に感じて自ら進んで返礼をするものだ」と考えるからだ。お花畑的平和主義に染まると、敵性国家から良いようにあしらわれる。古今東西問わない歴史的教訓を、この手合は理解出来ないのだ。

実は、冷戦終結後の日本において、数少ない国交を持たない国の一つである北朝鮮と国交正常化を目指す動きがあった。
米ソ対立消滅で世界中でデタント(フランス語で緊張緩和を意味する。外交用語として冷戦末期に特に流行った)が進む中、日本だけがその潮流に取り残され、北朝鮮と国交すら結べないのは如何なものか?との論調が存在した。
拉致問題が発覚している状態にも拘らず、自称平和主義を大切にする政治家・政党・マスコミの中では「拉致問題を棚上げして、取り敢えず国交樹立させ、互いに信頼構築していく中で拉致問題を解決しましょう」と言い出したのだ。
こういう甘い対応で北朝鮮が自ら周辺国に融和姿勢を打ち出したことなど一度としてない。

アメリカ・クリントン政権は北朝鮮が核開発に進まないよう、融和策として重油と軽水炉提供を提案する事で関係改善を目指した。
この時、クリントン政権は日本の同意なしに日本(及び韓国)の資金提供を枠組みに入れ込み、後から日本にこれを飲むよう圧迫したのだ。
アメリカにおいて民主党政権の時代と言うのは、日本軽視、日本敵視の外交戦略が当たり前に出て来る。
この頃は
 「ジャパンバッシング(Japan Bashing)」
ではなく
 「ジャパンパッシング(Japan Passing)」
がしばしば語られた。
 「日本は叩く相手ですらなく、無視して構わない相手だ」
と言う意味だ。

こうして日本がアメリカからの無理強いに折れ、話が進んだ重油及び軽水炉提供と言う枠組みでクリントン政権は何を得られたのか?
北朝鮮は浮いた金で、こっそり核開発を推し進めた。IAEA査察を拒否し、アメリカの独自調査でウラン濃縮技術開発を進めている事が発覚。これに逆切れした北朝鮮は、IAEAからの脱退を決め、日米を威嚇するように日本上空を越えて太平洋に着水したテポドン1号を発射する。
誠意に対して誠意で返す外交文化など、北朝鮮は最初から持ち合わせていないのだ。

日本のコメ支援は2000年の話だ。
テポドン1号発射が1998年。
軽水炉提供の大失敗をその目で見ていたはずの連中が、コメ支援で北朝鮮の外交姿勢軟化を夢見ていたのだ。
日本の平和主義者は現実を何一つ見ようとしない
自分達が見たい世界だけを頭に思い描き、外交的に害悪としかならない行為を”善意”で押し通そうとする。
その典型がコメ支援の話だ。
そのコメ支援を強烈に推し進めたのが河野洋平と言う男だ。

外交に際して、日本を徹底的に貶め、日本の外交力を削ぎ、負の遺産を目一杯こしらえた人間だ。
現実主義的に世界を見ようと思う日本人なら、河野洋平の愚行の数々を絶対に忘れてはいけない

福田赳夫総理大臣「人命は地球より重い」

本題に戻ろう。
福田赳夫が総理大臣だった1977年9月28日、ダッカ日航機ハイジャック事件が発生する。

フランス発、数多くの経由地を経て日本の羽田空港を目的地とする日本航空の国際便が、経由地の一つインドのムンバイ空港を経った所でハイジャックされ、バングラデシュ・ダッカの国際空港に強行着陸させた為、この名が付けられた。
乗員・乗客、151人が人質となった。

犯人は日本赤軍
日本の新左翼系の国際武装組織であり、マルクス主義を唱え、世界同時革命を志向するテロリスト集団である。
犯人の要求は

  • 人質の身代金として600万米ドル(当時のレートで約16億円)

  • 日本で服役、または勾留中の9名の釈放、及び彼らの日本赤軍参加

であった。
また、
「回答が拒否された場合、または回答をしなかった場合、順次人質を殺害する」
との警告もなされた。さらに
「その場合、アメリカ人の人質を優先する」
との条件も付けられる。
※日本赤軍は「反帝国主義」も掲げていたが、これは「社会主義陣営が、アメリカ的な世界戦略を批判する文脈で、『アメリカ帝国主義』と形容し、これを徹底批判する」事を意味している。この反米的思想によって、日本赤軍は東側諸国と接点を持ち、中東など反米意識の強い国を拠点として、反米及び反イスラエルのテロ行為を行った。

実は、この便には当時のジミー・カーター米大統領の友人が搭乗しており、犯人は予めこの事を知っていた。日本政府はアメリカとの二国間関係を配慮せざるを得ず、これによって、交渉が有利になると踏んだのだ。
日本政府は交渉期間が長くなる事を避け、また武力による解決を選択せず、身代金の支払いと「超法規的措置」による収監者の釈放を決定した。

この時に福田赳夫総理大臣が発したのが
 「一人の人命は地球より重い」
のフレーズだ。

この言葉自体は、福田赳夫の個人的言語センスから出たものではない。
1948年、戦後間も無い頃、「死刑と言う刑罰の是非」について争われた裁判において、最高裁判決の中で出て来た表現なのだ。
高裁まで死刑判決を受けている被告人の弁護士は

憲法第三十六条
「公務員によ る拷問及び残虐な刑罰は絶対にこれを禁ずる」

日本国憲法

を引用して、「死刑が36条違反に当たるのではないか?」と訴えた。
これに対し、最高裁は
 「一人の人命は地球より重い」
と最大限、命の大切さを認めた上で、

憲法第三十一条
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」

日本国憲法

を引用し、適正な法的手続きを経てなされる刑罰の内容として「その生命(中略)を奪はれ」とわざわざ明言している事からも、憲法が死刑の存置を前提としている事は明白であるとして、その訴えを棄却した

ネット検索してみると、「一人の人命は地球より重い」について「この最高裁判決が初出ではなく、明治期の小説に既に見られた」との情報もあるが、作品名が特定されておらず、その真偽については何とも言えない。

対テロリズムの政治判断の難しさ

現代ではテロリスト集団に対し、国が交渉を行い、場合によって要求を飲む事に対し、ネガティブなイメージが相当定着して来たと思う。

これは、テロリストの要求に屈して渡された身代金が、新たなテロリズムの資金となり、より多くの被害者を生むリスクが一定程度認知された為だ。
また、特定の国がテロリズムに屈しやすいとのイメージを持たれると、その国の国民がテロリスト側からターゲットとされやすくなるデメリットも存在する。
2015年辺りに猛威を振るった「イスラム国」、「IS」は身代金ビジネスを大規模に行ったが、実際にトルコの国境周辺で相手の国籍を調べた上で狙いをつけ、支配領域に無理やり連れて行く手法を取っていたとされる。

テロ行為、特に身代金や何らかの要求を求める人質事件が頻発すると、「今後テロ行為をどう抑止するか?」の観点で議論が展開される。
そうして上記の知識が共有される事で、テロリズムへの徹底抗戦、「テロリストには何も与えない」との指針がその国で広く受け入れられやすくなる。

だが、この対応が基本とはなっていても、政府がそれをいつも徹底しているのか?と言うとそう話は簡単ではない。
ISとの間でも、基本は粘り強い交渉と相手に何も与えないとの姿勢になるが、大っぴらに出来ないだけで身代金を支払って解放されたと見られる事例は各国にある。こういう事例もあるだけに、テロリスト集団の方も交渉が停滞した場合でもすぐには人質を殺さないようになる。

逆に、対テロリストの対応をゼロ回答で固めている国の場合、テロリスト集団の方で人質の国籍が分かった時点で即殺害されてしまう事もある。ISによる人質事件でも、このケースが発生していたと言う。
これを致し方ない事と納得できる国民ばかりなら問題は無いのだが、多人数が同時に誘拐されながら国籍によって助かった人もいたと知った人質家族がここに納得できるか?はかなり難しいところだろう。

0か100かで安易に片付けられない、それが対テロリズムの現実と言う事だ。
ダッカ日航機ハイジャック事件に対しても同じ事がいえる。
これより前に日本赤軍が起こした「ハーグ事件」(オランダ・ハーグに所在したフランス大使館で発生した人質事件)ではオランダ政府が30万ドルの支払いに応じたし、フランス政府は「偽造米ドル所持」、「偽装旅券行使」の容疑で逮捕していた日本赤軍メンバー・山田義昭の釈放に応じた
日本政府だけが特別、テロリストに甘い対応を取っていた訳では無かったのだ。
今の感覚でこの時の日本政府を安易に断罪するような論評は、公平性の観点、当時の国際情勢、テロリズム対処の国際標準を十分考慮しておらず、不当なものになってしまう。

対テロリズムで妥協的な解決が中心だった国際的潮流を大きく変えたのが、ダッカ日航機ハイジャック事件が一応の解決を見てから、わずか10日後に発生した「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」だ。
この事件対応には前段があった。
1972年、ドイツ・ミュンヘンで行われたオリンピックが開かれた。
平和の祭典として開かれたはずの五輪において、パレスチナ武装組織がテロ事件を起こし、イスラエルの選手11名が殺害される惨事となった。
ドイツではこのミュンヘンオリンピック事件を契機として、ドイツ連邦警察内に対テロ特殊部隊「GSG-9」を創設していたのだ。
そして、当該航空機が着陸したソマリアの国軍、およびイギリス軍特殊部隊SASの協力を得て、救出作戦を敢行し、GSG-9隊員1人、及びスチュワーデス1人の2名の軽傷のみで見事作戦を成功させた。
男女2名ずつの実行犯のうち、3人が射殺され、女性テロリスト1人は逮捕された。

繰り返しになるがテロリズムが発生すれば、それに対する備えの議論が確実に起こる
警察や軍など、国家内に存在する実力組織に対テロ対応能力が備われば、強硬姿勢を取る事も選択肢に加わる
過去の悲惨な事件を教訓にして、国際社会はテロリズムへの対処法を増やしたと言う事になる。
日本の警視庁(警察組織に詳しくない人は、取り敢えず警視庁の管轄地域が東京である事だけ覚えれば大丈夫。「東京都警」みたいなもの)、大阪府警には、”ダッカ事件を教訓として”、これら人質事件、テロ事件対応の特殊部隊であるSAT(サット)が創設された。
現在は、7都道府県警察(北海道、警視庁、千葉、神奈川、愛知、大阪、福岡)にSATが存在する。

もしダッカ日航機ハイジャック事件が現代で起こった場合、仮に時の政府が強硬姿勢を取り、その結果として少なくない被害者を出したとしても、おそらく相当程度の日本国民が「ある程度、やむを得ない判断だった」と考えるだろう。
被害者が出ている時点でベストな選択とは言える訳も無い。
だが、身代金を渡さなかったのは新たなテロ被害を未然に防ぐ事にもなるし、「仮に今後日本人を襲ったとしても得られるモノが少ない」とテロリスト側に思わせられたのなら、将来の日本人にとってのテロ被害リスクも低くする事が出来る。
多分、危機対応の専門家などもテレビ・新聞でこのような論調で評価するだろうし、多くの国民はそれをそのまま受け入れると予想する。
無論、「国家が守るべき国民を見捨てた」との枠組みで、政府の落ち度を強く非難する「例の極端な人達」は火が付いたように大騒ぎする事も目に見えているが、それが国民の多くの共感を呼ぶ事は無いと思う。
日本国内におけるテロリズムに関する論評は、相当程度、現実主義的論調が通るようになっているからだ。

実は、日本国内において、テロリズムに対するマスコミ論調、及び世論が大きく変わった事件があり、この前後で
 「『かつて起こったダッカ日航機ハイジャック事件』への評価」
も大きく変化している
のだ。

余談も含めて、結構長くなってしまったので、上下に分ける事にしたい。
次は、

「在ペルー日本大使公邸占拠事件」の衝撃

から始めようと思う。

<下に続く>

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