「わからない」という世界への変貌 #虎note

ある時から、世界に「よくわからない」というフィルターがかかるようになった。

その時からだ。自分が何に悩んでいるかもわからなくなり、その時悩んでいるような何かを相談してもスッキリしなくなった。自分自身が前に進んでいるかどうかも不安で、昔あったような足元がしっかりしているような感覚が失くなった。

いつもフワフワしていて、自分が現実を生きているかがわからない。……と、いうより現実を生きている感じがしない。世の中の法則を無視するようになり、自分自身の生存のこと以外はあまり考えなくなった。他人が自分の世界の中に介在しておらず、また他人の世界に自分が存在している感覚もなくなった。

自分がどう見られているかがわからなくなり、どう見られたいかが全くなくなり、色々なことに無頓着になった。部屋も、一定以上汚くなったら掃除していたものも掃除しなくなり、洗濯の頻度も減った。

飯の味もしなくなった。咀嚼する回数が減った。冷たいものを平気で食べるようになり、内臓に負担をかけることをなんとも思わなくなった。

酒の量が増えた。酒も「嗜む」ことをしなくなった。エタノール臭が好きで、強い酒を飲んでいる。昔ストロング系の酒は、飲んでたら頭悪くなる感じするから飲まないようにしようと思っていたが、今は頭を悪くする為に飲んでいる。考えなくて済む、現実を先延ばしにできる気がする。

それに反して外出する時にはシャワーを浴びなきゃ、歯を磨かなきゃという自分を縛る規則が以前より強くなり、出かけることが本当に億劫になった。

月に1回コース料理に行くこともしなくなった。特別な何かを誂えることもなくなった。やたらとファストフードが好きになった。

趣味が低俗になった。風景を楽しまなくなった。美術館に行かなくなった。遠出をしなくなった。博物館に行かなくなった。映画を見なくなった。感動することをしなくなった。

家で酒を飲んで、塩気のやたら強い飯を食って、好きでもない女とセックスをして、その女からの連絡を疎ましく思いながら新しい女に声をかけて、責任のある連絡はなるべく遅めに返して、いつも何かをうやむやにしたい気持ちの中で生きている。

うっすらと一枚、世界と自分の間に透明で強い膜がかかっている。諦めの匂いと、味と、食感のする、溶けないオブラートが目の前に存在し続ける。

ある時から世界が味方でなくなった。冒険の世界から、地獄に変わった。何かをクリアして、前に進んで、レベルアップして、華々しい道を歩んでいたはずの風景が、全て血の池と針の山になった。

世界を描いている心象風景が、恐ろしいものに変わった。イージーモードかノーマルモードだったゲームが中盤でいきなりベリーハードか、もしくはそれこそ地獄モードになった。

この中で生きて行くことは難しい。この世の中でどうやって生きて行ったらいいかが、よくわからなくなった。地獄の中で矮小な人間が生きて、ここを抜け出すことができるのか、もしくは閻魔大王に勝つことは無理だろう。

いくつもの挫折を人生で味わってきたが、それらを今まで努力で乗り越えてきた。しかし今、俺にとってこの人生が「無理ゲー」になっている。

無理ゲーを攻略する方法はあるのか?あるとしたら、小学生の頃からクイズ番組全国No.1になっているような天才か、ベンチャー企業で華々しい成果を出しているような、そういう人達しかわかりえないのではないか。

俺のような平々凡々とした、何の能力もない、いやむしろ出来の悪い、落ちこぼれに無理ゲーがクリアできるというのか。

いつからか、この人生をどう生きて行っていいのかわからなくなった。

呼吸して、食って、寝て、最後には死ぬ。

そこに行きつく自分の人生に何を描いたらいいのか。

昔は、死ぬまでの人生を人の為に何ができるか、自分の経験を通じて誰に貢献ができるのか、周囲の人々をどう幸せにするのか、よく考えていた。

しかし今は「どうせ死ぬのだから、生きていても仕方ない」という態度に変わっている。人生が味気ない、価値のない、無味乾燥な……虚しいものに変貌した。

こんな中で俺はどう生きて行ったらいいのか、全く五里霧中になって数年が経った。

「わからない」は責任を取らないための態度の1つらしい。わからないと言っておけば責任を逃れられる。わかってしまうとやらなきゃいけない、そしてそれを自分に課さないといけない。だから、わからなくしておく。責任を取らなきゃいけない事態が発生しそうになると、「わからない」を予め用意しておく。

だが、いつだって冷静になるとやることはシンプルだ。

仕事だって、コミュニケーションだって、今目の前でやるように求められていることをやるだけだ。そして、失敗したとしたらそこからもう一度新しく始めるだけだ。

だが、失敗はしたくないし責任も負いたくない。誰かに何かを言われたくないし、能力が圧倒的を伸ばしたところで人生はどこに行き着く?

限られた生を謳歌することの意味は?毎日を一生懸命生きることの意味は?

昔「今しかないから、今を一生懸命生きるしかない。」と思っていたことがあった。今は俺の中に知識として、形骸化されて存在している概念だ。

それができると何ができるか?「幸せ」なのだ。その瞬間瞬間が最高に幸せなのだ。過去も未来も要らない。今最大限に幸せであるように努力をすることが、過去も未来も幸せにするのだ。

わからないことをわからないままに、とにかく今できることを必死でやる。昔できていて今できなくなってしまったことや、失ってしまったものや、このことが未来何に繋がるかとか、何のためになるのかとか、誰のためになるのかとか、そんなことを考えることが、そもそもの間違いなのだと、頭では知っている。

過去のNoteにも書いた。

「時間という基準が判断を狂わせる。」

自分の人生に、過去があるとか未来があるとか、そういうことを考え始めるからおかしくなる。過去が判断の参考にはなれど、全てではない。未来は向かう先の指標にはなれど、それが叶うかどうかはわからない。

そういう意味でも、今と、今できることしかこの人生には存在しない。

けれど、俺は分厚いオブラートを目の前に「どうしたらいいか、よくわからないな。」という態度をどこか続けている。

人は自分を言語で無意識に規定している。

余談なのだが、子供は厳しくしつけられすぎると「こんなに怒られるということは、自分は悪い子なのだな」と無意識で親の意図と反対の認知を持ち、グレてしまうことがある。そして、その認知を解析することは親はもちろん、本人もできないので「悪い子」への坂を転がり落ちて行く。

過度な罰、逮捕、虐待、規則……「正しい」ことの行使が、時に悪を生むということが、非常に風刺的で、皮肉に溢れていて、悲しくも愛おしい現象だなと思う。

さて、これまでの人生を体験した、こういう俺は何なのだと、俺は自分を規定しているのだろうか。

無責任か、自分勝手か、阿呆か、それとも。

それがわかるまで、俺は「よくわからないな」と言い続けるのだろう。

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