何もかもが嫌になっている時 #虎note

「何もかもが嫌になった。」

よく聞くワードだ。しかし「何もかもが」というのは修飾語であって、本当の言葉ではない。

別に呼吸することとか美味しい何かを食べることは別に嫌ではないし、好きな動物や植物、美しい景色を見ることも別に嫌ではないだろう。とすれば、「その時に思い付いていることが全て嫌だ」とでも言い換えたらよかろうか。

そして今、まさに私もある物事について「何もかも嫌に」なっている。長らく続いているいくつかのプロジェクトで、人を育てるとか、その人が持つ能力を既存のやり方とは違うアプローチで伸ばすとか、そういうことを色々な役割を持ってやっている。

私はその組織の中で、国レベルで高水準で成績を出していたり、その会社の中で初めての記録を出したりしているので、おそらくかなり優秀な部類の人間であろうということは、なんとなくわかっている。

ただ、しんどさを感じ始めたのが「要求レベルが上がり続けてきた」ということだ。最初やり始めた頃は自身の能力で好き勝手に楽しくやれていたので、よかった。明らかに周囲より有能なことがわかっていたし、明らかに成果が出ていたので、自分としても楽しくやれていた。

しかしいくつかのプロジェクトを経由した時、求められる能力も増えてきて、動かす人員も増えてきて、思い通りに進まないことがとても増えてしんどい中でそのプロジェクトを完遂した時、言われた一言があった。

「もっとできたよね。」

と。その瞬間、色々な物が崩れ落ちるような感覚がした。失望というか、ガッカリと言うか。自分が耐えに耐えて、苦しい中でやっていたことが否定された感じがした。そのプロジェクトで私は、その会社の中で3つの記録を打ち立てた。それはおそらくその会社でいう史上初の出来事だっただろう。

そのことを全く評価されず「もっとできた」とだけ言われた時、正直「もう関わりたくない」という気持ちだけが残った。他のプロジェクトでも、メンバーが繰り返す同じ失敗や変わらない文句に本当にウンザリしているところだった。「トドメを刺された」という気持ちだった。

「もっとできたよね」という言葉はきっと否定ではないのかも知れない。しかし、忍耐に忍耐を重ねて完遂したプロジェクトの結果の一言がそれ、というのは私にはとても耐えがたいものだった。

人間には特定の関心がある。今の私は、承認欲求や正の評価を貰うことに関心がある。そしてこの関心は、自身が自身に対して投げかけていない言葉や、認めていないところから生まれる。

そう、つまり私は自分で自分に対する承認や評価を産み出す必要があるということはわかっている。それこそが自分に必要なことだとは知っている。

とはいえ、うんざりしてくる。感謝されない、それどころか文句を言われる、否定しかされない、と私の世界には色眼鏡がかかってしまっている。
そんな解釈をしてしまったので、欲しいはずの賞賛や承認がだいぶ聞こえなくなったなとも思う。

『「無視・賞賛・非難」の3段階で人は試される』

とあるプロ野球の監督が言っていた。
人間が持つメカニズムとしてある、ここを超えていく必要がある。周囲は多分、非難も否定もしていない。それこそ言いたいことを言って、やりたいことをやっている。そしてそれを私が否定として聞いている、それだけだ。
人間はある時から「こいつはこれくらいやって当然だ」というように見られる瞬間が来る。その瞬間に、今まで貰っていた賞賛がなくなる。そこで折れるか、折れないかだ。

人によって、その言葉で燃える人もいるらしい。あるプロ野球選手は、観客席から聞こえたヤジを聞いて「よし、やってやる!」と思うらしい。その人にとって、その言葉は否定ではなく、別の何かに聞こえているのだろう。

『達成こそが最大の報酬である』
『能力の伸展こそが一番得難い経験である』

私も、それらは言葉として知っている。

では、達成を報酬にするとして?能力を伸展させるとして?私はどこに向かうのか。金銭以上の報酬を自分で定めなければ、この苦境はいつまでも続く。褒められなければ、承認されなければ、良い評価を貰えなければモチベートできないのであれば、いつまでそれを誰にやって貰う?まるでそれは、母親に甘えている子供のようではないかと思う。

そう考えると、自分が苦しいところで戦い続けることも、その中で文句も言わずやり続けることも、全てはきっと自分が見えていないコミットがある。

きっと私は「強くなりたい」んだと思う。耐えるのは、強さの証拠だ。何も言わないのも、強さの証拠だ。私は自分が強いことを証明するために、じっと我慢し続けているのだと思う。そうして1人でやり続けることで「どうだ、俺は強いだろう」と、証明したい。

逆に、そこで誰かに弱音を吐いたり、頼ったりするのは弱い奴のやることなのだ。俺は俺の弱さを、まだまだ認めていない。強いフリをして、痩せ我慢をして、ウンザリして……いつか、ボッキリ心が折れる。

そうした時、思うのだ。

「ほら、やっぱり俺は弱いし、何もできない、無力な奴だ。」

と。弱さを隠して、強いフリをして、その結果「やっぱり俺は弱い」という現実をわざわざ作り出す。「恐れは現実化する」と私はよく思っている。自分が恐れている自分の弱さを、こうして人間は作り出している。

自分の弱さを本当に認めないと、自分の強さも認めることはできない。というか、わからない。弱い=悪い になると、客観的な認知ができなくなるのだ。

認めよう。私は弱いのだ。無力なのだ。だから今こうして1人で、打ちひしがれて、絶望を感じている。

そしてきっと私は強くもあるのだ。だから他の人間ができないことを1人でやりきってきた。他の人が諦めるような試練も乗り越えてきた。私自身が私自身の強さを認めなければ、誰が認めるのだろうか。

強さと弱さは同時に存在する。強いことも、弱いことも、良いことでもなければ、悪いことでもない。そして私は強くなり続けることで、何を求めているのだろうか。他の人間の何倍ものことをして、何倍もの成果を作って、優秀だと自分を誇って。

多分、多分だが私は「自分を好きになってあげたい」のかも知れないな、と思う。別に何かを成し遂げたいわけでも、誰かに認めて欲しいわけでもなく、「これだけやったお前はよく頑張ったな」と自分で自分に言ってあげたい。

それを今まで私は私に言えなかったので「もっとできたよね」が否定に聞こえたのだろう。

思えば、十全に頑張ってきた人生だったように思う。特化した能力はあまりなかったが、本当に何でもできる能力を持っている。ある社内では「貴方は全ての部署で活躍していますね」と言われたこともある。何もかもが足りない人間だから、誰よりも全てのことに目を向けた。そして今も「まだ足りない、まだ足りない」と言っている。

もうそろそろ、それを辞めにしてもいいのかも知れない。自分はもしかしたら充分に有能で、否定から能力を伸ばす必要はないのかも知れない。できないことを否定して、できないことを頑張り続けるのも、もうそろそろ辞めてもいいかも知れない。これは苦手なので、お願いできますかと素直に言っていいかも知れない。

何かを求めて頑張っているのだと思っていたが、何のことはない。
俺は、自分で自分のことを認めてやりたくて、これまで頑張ってきたのだった。そしてきっと、俺は充分に、時に異様に無理をして、努力をしてきた。

もし自分のことを好きになって認めることができたら、誰かに何かを差し出す時に、何の見返りも報酬も要らないかもしれない。その人生を今日から生きていってみてもいい、そう思えた。

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