飲み込んだ言葉と我慢した感情が自分の心をズタズタにした #虎note

昨日、尊敬する方と食事に行った。ずっと憧れがあった人で、去年の春に少し話して連絡を交換したっきり、ずっとコンタクトを取らずにいた。

3週間前、感謝と尊敬を伝えようと思った。
その人がそこにいるだけで自分の力が湧いてくるような、そんな人だった。
そのことを伝えずにはいられないな、と意を決してラインした。

しばらくして、返事が返ってきた。

「是非、飲みに行こう。」

願ってもないお誘いだった。
そして1回のリスケを経て、昨日、その日が訪れた。

2人で食事をしながら、様々な話をした。
そしてある時、彼のお父様の話になった。

「俺は、父親に言ってなかったことが沢山あってさ。」

彼の半生、辛かったこと、色々。
そして彼がお父様に向き合って話したこと。
様々な、彼の大事なことを話してくれた。

そして、その話が終わった瞬間、私は感情の波に襲われた。
私も、私の父親に言いたいことを全く言っていないと。

私の父親は10年前、自殺している。私の誕生日の5日前だった。
私が出て行った、私の部屋で、首を吊った。

死んだ人に何を伝えればいいのか。
私の行き場のない気持ちは、そのまま飲み込んで、無いことになっていた。

どうしろというのか。
手紙を書く?似た人に気持ちを伝える?そういうレベルのことではない。
そんなことでこの感情を納得させられはしない。
父親が死んだことも、死んだことに対する怒りも、もっと話したかったことや一緒にいたかったこと、酒を飲みたかったこと……。

「どうしたらいいんですかね、これ」

目の前にいる彼に相談した。

「俺の親父は最高だったって額縁に入れて、ドンと飾ればいいんだよ。」

ハッとした。

ああ、どこかで感じていた怒りや悲しみの源泉は全て愛だったのだと。
愛に気付かないくらい悲しかったが、皮肉にもそれだけ愛していたのだと。

ネガティブな感情の発生源は全て愛から来ていた。ネガティブな感情が大きいとすれば、それは愛が大きかったからだ。

彼の言葉をそれを認められた気がした。

そう思った瞬間、父親に対する大きなわだかまりが消えた。

消えた瞬間に知った。
私はこんなにも大きく悲しんでいたのだと。



翌日。
起きた瞬間、あまりにも悲しみがあってびっくりした。
目が腫れている。おそらく、寝ている間にも泣いたのだろう。
世界が悲しみという色に染められていて、全てが物悲しく見えた。

こう書くと、何か良くないことに見えるかもしれない。
だが、私にとっては祝福だった。

「悲しんでいい。」

きっと私が私に、それを許したのだろう。

今までの私は悲しんだところでどうなるのか?何も解決しない。そう思って生きてきた。悲しむことは無駄である。泣く人を見る度、白けた気持ちになった。くだらないと思っていた。

私にとって悲しむことは確かにタブーだった。
しかし。

多量の酒。

散らかった部屋。

たまにする過食。

慢性的な体調の悪さ。

それらは全て、私の涙だったことに気付いた。
私はどうしようもなく悲しくて、しかしただそれを表現することもできず、誰にも言うことができず、違う形で表現していただけなのだと。

長らく言わなかったことが、我慢していた感情が、目を背けていた辛さが、自分の心を傷付けて、いつの間にか動かなくなるほどに巨大な瘡蓋を作って、その上から更に傷を付けて、もはや完治不能な癌のような存在になっていた。

駅まで歩きながら、分かったことがある。

これはただ、悲しいだけなのだ。

ただ悲しいは悲しい。それしかない。

それによって怒る必要もなく、それを隠して我慢する必要もなく、ただ悲しいのだ。

そのことを変にいじくったり、なかったことにしようとしてはいけない。

ただ悲しいことは、悲しいのだ。

子供は、悲しい時に全力で泣く。

私はただそれをせず、悲しい出来事に無理な意味をつけて、覆い隠していた。ちゃんと悲しんでいなかったんだな、とわかった。

そして、悲しみを隠すと、愛も隠れてしまうのだなとわかった。
他人からの愛も受け取ることができない。
いや、愛を受け取ることの怖さすらも見ることはできない。

私は随分長らく、砂漠のような人生を歩んでいるのだなと思う。

それも悪くはない。ただ、人生にオアシスがあってよくて、そのオアシスは自分で作ることができる。

そのくらいの豊かさは、人間誰でも既に与えられている。

起きてからだいぶ時間が経つ。

まだ悲しみの蛇口は閉まらない。

それが出て行ききった時、私の眼には新しい風景が映し出されるのだろう。

そう思うと、この悲しみにも愛おしさが湧くなと思った。

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