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「全てで在る」ということについて #虎note

ある漫画に「一は全 全は一」ということについて書いてあった。

過去に沢山思い込んできた「私は○○である」、例えば自分はバカだとか、無能だとか、そういったものが沢山消え去って行った時に「私は何者でもない」という感覚が去来した。

何者でもないなら、私は何なのか。

恐らく私、というか人間は「認知の堆積そのもの」であって「記憶装置」なのであるとわかる。感情があるので、理性があるので、その反応が有機的であるので、何か特別な、他と違うただ1つの生物だと思いたくなるが、私は間違いなく人間という機能を持った、特定の反応と行動様式を持つ機械の1つである。

人間は全ての記憶を根本的には忘れないという。つまり、膨大なデータベースと機能を持つ顧客管理のソフトウェアのごとく、私達にもそのような機能とデータベースが備わっている。人間、という機体が持つ機能を誰もが持っていて、自分もしくは人間という存在を「特別」と思いたい機能がその認識を阻んでいる。

私達は特定の機能を持った機械か、もしくはそれに準じた何かである。ただ、我々は我々を「機械」などと思いたくないからそのことを拒む。

その機能の1つについて語る。

人の意識には境目がないという。「私」と「貴方」には違いがないという。人を愛する時、その人の中にいる自分を愛している。人を憎む時、その人の内に眠る自分を憎む。

人は、その事を思う時、その人と共に在る。人を想う時、人と居る。世界を思う時、世界にいる。宇宙を思う時、宇宙にいる。私はあらゆる空間に間断なく存在する。私のところにも、誰かのところにも。世界にも、宇宙にも、知らないところにも。

自分とは世界である。自分とは世界の全てである。

時には流体のように、時には気体のように、この世界の隅々まで行き渡っている。

「私でないもの」はない。

私は全てで在る。

私達はどんな時もどんなところにも常に介在していて、そこに微塵の隙間もない。そして、その機能を持つ個体同士が集まって生きている。その個体同士の共通認識を「常識」という。ヒトという機能は、常識があると安心する。争う必要がないから。生存を脅かされる必要がないから。

しかし、もはや常識に怯える必要はないのかも知れない。世界には私しかいないのだとすれば。私とその機能によって認知された存在しかいないのだから。

つまり「自分を脅かしてくる他人や外界」などというものは存在しない。

「私が認識するもの全てが、私でしか在れない」という限界を、私自身が持っているのだから。

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