時間という基準が判断を狂わせる #虎note

木々が知らぬ間に、自分の意志と関係なくそこに生えているように、人は人のしたいように何かを言い、するだけである。この示唆はとても興味深い。

その木々は昔から生えてはいない。私が認識した瞬間に生えたのだ。

しかし人は新しく何かが生まれたと思うと、そのことを扱い始める。邪魔だとか便利だとか、都合が良いとか悪いとか。

しかし過去や未来という時間を判断軸から取り除いた時、全てはコントロール不可能なものとなり、ただ「あるもの」になる。

とかく、人間は過去からあるものには疑問を持たず、未来から来るものに疑問を持つ。それは「常識」と呼ばれるものかも知れない。
だが全て新しく生まれたものが過去から存在するものだとしたら?逆に過去からあるものが、明日生じるものだとしたら?この示唆から「疑問」について考えることができる。

そう。疑問を持つに値する物事は、我々の外側には存在しない。
我々が「そのように」認知した時に初めて、その物事はその価値のあるものとして存在する。モノは過去によって形骸化され、未来によって新鮮なものとして扱われる。しかし、それが事実かと言われたらきっとそうではないだろう。

我々の認知の中には過去も未来もない。他人もいない。そして「私」という存在も、厳密には居はしない、と考えてみて欲しい。

これまでの学習により、「私」と「他人」と「社会」は区別されて存在しているように思えるが、人間の脳はそんな高度に洗練された物ではない。

表面上はそのように認識していても、根本的にはそのように分けて判断する機能は備わっていない。我々はその器用な仕分け能力によってうっすらと常識を信じさせられているだけで、根底にある「こいつ」は、いつも違うところにいる。我々がいつも感じる情動や不快感や愛は「こいつ」が司っている。

そう、つまり「こいつ」は誰もコントロールできないのだ。にも関わらず我々はこいつを、表面上に作り上げた「常識」の延長線上で扱おうとしている。それは金槌で宇宙を作ろうとするような、全く的はずれな意図である。

我々の認知、判断、理解、といった高度に発達した思考のそれらは、「こいつ」とは別軸に存在する。そして、私達は、根本的には「こいつ」なのだ。こいつは今この瞬間を見て、この瞬間だけを捉える。このことと「我々」はいつも分離している。にも関わらず一緒だといつの間にか思っている。

不幸の始まりがあるとしたらその混同だ。
私は私でもあるのだが、「こいつ」でもあるのである。それ以上のことはない。どちらも存在する。それだけである。

それが常に両在する別の存在だと認知していられれば、そのように自分をしつけておくことができれば、人はより有意義に生きていけるはずだ。

どのような捉え方でもいい。この瞬間これが起こることが運命付けられていたとか、全ての物事が今発生しているとか、過去と未来が存在しないとか、全ては自分が選んだとか、「ただ今目の前に起こっていることが起こっている」ということに、何の疑念もないのであれば、それでいい。

人が不幸なく生きることができるのは「目の前のこの出来事は全て起きるに妥当である」と認識している状態があってこそだからだ。

いつもそのように生きていられるという「当たり前」を誰もが欲してやまないのではないか。

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