「気分」に使われなくなると、夢に近付く #虎note
アラン、という哲学者がいる。
彼はこう言った。
「不機嫌になることは誰でもある。高貴な魂を持つ人はこのような偶発的なことなど忘れてしまう。ところが普通の人の場合、不機嫌を是とし、気分通りにすることを言わば誓う、ある意味でそれを絶対的なものとしてしまう。こうして、自分で1つの性格を創り上げている。」
と。
これはどういうことか?
気分通りに生きてしまうと、その「気分」を「俺はこういう性格だから」と規定してしまうということだ、と私は解釈している。
気分は一過性のものにすぎず、継続するものではない。だが、その気分に沿った行動をすることで「そういう行動をする自己である」ということを意識に認知させる。
ガンジーが言う。
「第二の矢を受けるな。」
と。
つまり、第一の矢、つまり気持ちや感情、気分があることまでは問題ない、というか人間として当然の機能である。だが、そこで行動してしまうことで人は自己を規定する。「私はそういう行動をする人間だ」と。
気分や感情を否定する必要はない。それはあった方がいいものだ。むしろここでそれらを否定して我慢するようであれば、余計にその感情は増長する。
その感情があることを認めた上で、高貴な人間、自身をコントロールできる偉大な人間として自身のコミットしたことに沿った行動をするのだ。
ここで少し難しいなと思うのは、教育環境によっては「あれはダメ、これはダメ」と言われて我慢とコントロールの違いを失っている人もいる。
そういう人には「今自分にどんな感情があるのか?」と「この感情があることは悪くない、そして違う行動を私は取れる、そして自分が理想とする行動は何か?」ということ2つを意識する、口に出す、紙に書くなどして、訓練していくことをオススメする。
電車やお店で怒ってる人は多分、普段「我慢」をしている。普段怒ってはいけないところでは怒らないが、その反面心では怒りを溜めに溜めている。そうしてどこかで怒ってしまうことによって「我慢する自分」「怒る自分」を採用し続けるのだ。
ここまで書いたが、これら気分や感情に任せて行動することのデメリットは果たしてなんなのか?
人間関係の不和や、感情の摩耗、見知らぬ人を不幸にする……などの代償はあるように思う。
だが一番の代償は何かと言うと、私は「自信」だと思う。
自分自身の、自分の過去のnoteを引用するなら「こいつ※」の、感情や考えの中で行動するということは、自分を考えや価値観を越えられないということだ。
※ こいつ:コントロール不能な自己。(時間という基準が判断を狂わせる https://note.com/tiger_stlv/n/n591fe27bc5a8 より)
ということは「自分の知っていることの中の理想しか成し得ない」ということでもあるのではないか。
自分だけの感情や考えを正しいとしていると、何か理想や夢の為に、自身の埒外の物事の存在を、自分の中に存在させていくのは難しいように思う。
それはつまり「自分だけが正しい、と思えば思うほど自分の理想が遠くなる」ことを意味しているかも知れない。
それはそうだろう。現実にそぐった行動をしているかどうかではなく、気分やその時に出てくる気持ちを行動に採用しているのだから。
「〇〇だから俺には無理だ」
という気持ちが出てきた時に行動しないのだとすれば、「俺には無理だ」という自信の無さにつながる。気持ちの方を採用し続けるということは、どんどん気分次第の人間になっていく。それはつまり現実ではない、自分の世界の価値観のみの価値基準によって行動するということだ。
そうなると自分の理想ではなく、自分の気持ちに沿った行動をした結果が創り出される。逆に言うと、理想が叶っていないということは現実とズレたことをしているということだ。
自分自身の観点、感情、気分……それらが一時的に出てきたとしても、そのことを敢えて採用しない。自分が本当に行きたい方向の行動を採用する。
自分の望む現実を創り上げるには、自分の気分や気持ちを採用しない。いつも理想の側に立っていることが重要だ。
人は、幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。
気持ちから行動するのではなく、行動が気持ちについてくるのだ。
人間の脳の不思議な機能として「認知より行動が先に為されている」という研究結果が発表されている。
「自分がした行動は、自分の気持ちや感情の下になされた」と人は思うが、違うということだ。「為したことに対して気持ちや考えを適用している」ということだ。
人間の行動の中では絶えず認知的不調和(自分がこうしたということは、こういう気持ちがあるからなのだろうと思いこむ機能、吊り橋効果のようなもの)が行われているという良い証拠なのではないか。
「実は先に行動をしている。気持ちは、それを正当化している。」
そう考えながら生きてみると、面白いかもしれない。
「自分の行動が自分の考えを創り出している、認知を創り出している、世界を創り出している。」
それは、コントロール不能なはずの自動的に出てくる考え、気持ち、感情を超えて、自分の理想を実現できるかも知れないということなのだから。
自分が今可能に思っていること、不可能に見えていること、それら全てを超えられるかも知れないということなのだから。
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