一生懸命やるということに関して #虎note

いつも皮肉の中にいる。

一生懸命やっている人のことを見て「アホくさ」という自分がいる。

本当には羨ましいのだ。一生懸命やっていると輪の中心にも居られるし、自分で自分を誇れるし、その瞬間その瞬間が幸せだ。

逆に皮肉を言いながら何もしていないと、どこか後ろめたさがあって隠れたくなる。堂々とはしていられない。そして、皮肉を言うことも本当にはできない。

目的がある集団の中にいる以上、その目的に沿って行動することが正義だからだ。そうでない人間が皮肉を言うのは、完全にアホのやることだ。そして、アホに見られたくないから言葉を飲み込む。
そうしてまた飲み込んだ言葉が膿んで行き、歪な形をした怪物を産み出す。

しかし、本当には気付いている。「間違っているのは自分だ」と。目的を共にする集団の中にいながら、その集団を皮肉って、自分は違うかのような態度を取っていることの無為さにも。
だとしたら、何故そのような態度を取るのだろうか?

「俺はまだ本気出してないだけ」

という言葉を聞いたことがある。もしかしたらそれかも知れない。そう言って、本当にはチャレンジしたいものの怖さや諦めがあって、もしくは責任を負いたくなくて前に出ない。

前に出てやり始めると、失敗もすれば非難もされるし、要求もされる。

しかしそれなくして成功も成長も前進もない。

この2つの天秤の真ん中に、俺はいつもいる。そしてリスクのなさそうな時や自分の能力が十全に発揮されそうな時は前に出て、あっという間に成功して、注目を浴びて、「アイツはできる奴だ」と言われる。言われたがる。

しかし、失敗しそうな時や難しい局面では前に出ない。失敗し続ける姿を見せたくない。そんな恥知らずなことはできない。そんな哀れな姿を人に見せたくはない。

ここが俺自身の限界だなといつも思う。そこで踏み切れば、より強い試練の中でより能力を発展できると頭ではわかっている。

しかし、晒し物にされて恥をかきながら表舞台に立ち続ける度胸がない。逆に言えば、それだけだ。

子供の俺が憧れる「ヒーロー」は、難しい局面でもずっと矢面に立ち続けていて、だからこそ能力や度胸が拡大して、その積み重ねがヒーローを作った。
誰もが最初からヒーローではなかった。諦めなかった、逃げなかったという結果がそこにあっただけだ。

そして一番不愉快なのは、こういう文章を書いて行くと前向きな結論で終わりそうになる時がある。
自分の中の思考の滓を整理していくと、自然と合理的な行動をすることを求められる。自分の悩みがいかに独善的で、現実に即してなくて、思い込みに拠るものかということがわかってしまう。
この文章を書いた今「ああ、矢面に立つことなど別に大したことはないのだな」と思い始めている自分がいる。

そんな輝かしい意識を持った俺など、俺ではない。もうちょっと後ろ暗くて、シニカルで、片方の口だけ上げて笑うようなヤツでいたい。
「キラキラしてる俺」を作りだしそうになる度、キレイなジャイアンがそこにいるような感じがして気持ち悪い。

しかし同時に、今まで整理してこなかったこのゴミ屋敷を整理する度、人に慕われていて、いつも平穏の中にいて、何の皮肉も諦めも抱かず、あらゆる人間の未来とその可能性を信じていたような人生を味わうことも、絶対に悪くないというか、本当にはそれを望んでいる自分もいる。

いつまでこの抵抗が続けられるのかわからないが、もう少し不信感と猜疑心と、ケーキの切れ端程度の絶望を噛み締めて生きていたい。

この俺を俺が愛さなきゃ、きっと未来永劫、誰も愛してくれはしないのだから。

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