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『越えようのない壁』

2024年1月14日

 今日からは信仰の基本に立ち返って旧約聖書から考えていきたいと思います。まずは「罪」について取り上げていきます。人間の罪に対する感覚は曖昧で犯罪にあたらなければ罪ではないような捉え方があります。ですから大多数の人は自分が罪人だという認識は持っていないと思います。しかし、聖書の示す「罪」は明確です。
よく教会では「罪」の語源はギリシャ語の「ハマルティア」であり「的外れ」という意味が元になっているように説明されますが、これは少し正確ではないかもしれません。新約聖書がギリシャ語で書かれていたためそのように捉えられていますが、語源はヘブライ語の「חֵטְא(へートゥ)」からきていて「的を外す、道を踏み外す」の意味があります。(参考までに「罪を犯す」は動詞で「חָטָא(ハーター)」)
旧約聖書では「罪」に対して徹底的に記されていて神と人との間には越えようのない壁があることを示しています。古代イスラエルの人たちは旧約聖書の時代に神から与えられた律法を守ろうとしましたが、守り通すことはできませんでした。そもそも律法を完全に守るなどということは不可能なことだったのです。律法のひとつの目的は「罪」を明確にあぶりだすためのものだったからです。そして、神は人を近づけさせなかったのです。

旧約聖書を読んでいると父なる神は人に対して厳しすぎて近づき難いと、感じるのではないかと思います。
奴隷であったイスラエルの民がモーセに連れられてエジプトから脱出した際、暫くモーセが民から離れて神と会っている間にイスラエルの民は金の子牛をつくって拝み、罪を犯してしまいます。神はこれに対して激しく怒り滅ぼそうとされます。モーセによる取り成しと凄惨な断罪によって事態はおさまりますが神はモーセに言います。

■出エジプト33:3
あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。

神はイスラエルの民と一緒には歩まないと言われたのです。
また、出エジプトの際に移動用の神殿である「幕屋」がつくられますが、幕屋は分厚い幕によって聖所と至聖所に仕切られていました。至聖所には神様の臨在の現れであった契約の箱が置かれており、神が至聖所におられる時に人が至聖所に入ることは許されませんでした。ただ年に一度だけ、祭司のなかで選ばれた一人だけが大祭司として入ることを許されました。しかし、伝承によるとその大祭司の足にはロープがくくられていたとされています。何のためのロープだったのでしょうか?

幕屋の構造


それは大祭司が至聖所で神に打たれて死んでしまった時に引き出すためのものでした。大祭司といえども神の前に立つ時、わずかな罪でも持っているならそれは死を意味していたのです。私たちは人の社会を基準に正しさや罪を考えていますが、それは人の基準でしかないのです。旧約聖書は神と人との間には越えようのない壁があるということを徹底的に教えています。

では、神は私たちをご自身の「清さ」ゆえに拒んでいるのでしょうか?


【まとめ】


旧約聖書はもうひとつ大切な「赦し」についても教えています。
人類で最初に罪を犯したアダムとエバの話をみてみます。(創世記3章)
蛇にそそのかされたエバは食べてはならないとされていた善悪の知識の木の実を食べ、アダムにも食べさせてしまいます。神はどうして善悪の知識の木の実を食べたのかアダムに聞くと、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答えます。神がエバに聞くと、「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と答えます。アダムもエバも他に罪を擦り付けようとしただけでなく、間接的に「神様がつくった女が…」、「神様がつくられた蛇が…」と遠回しに神の責任だと言ったのです。

■創世記3:21~24
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

アダムとエバはエデンの園から追い出されることになり、この話には救済がないように思えます。
しかし、神がアダムとエバに「皮の衣」を着させています。動物の皮ですから、それまで何の落ち度もなく平和に生きていた無垢の動物が殺されて、アダムとエバが着る衣がつくられたのです。
この衣にはヘブライ語の「כֻּתֹּנֶת(クットーネット)」という言葉が使われており、袖のついた丈の長い服で家の長子が着る服と同じ言葉が使われています。つまり、アダムとエバは罪を犯しましたが無垢の動物の血によって神の子、相続人と扱われているということです。
残念ながら、人は他のものに「罪」を擦り付けたように自分で「罪」を処理することはできません。唯一、「罪」を処理できる方法が罪のない者に罪を擦り付けることで神に赦されるということでした。

神は「罪」を「赦し」という驚くべき方法で神と人との間の越えようのない壁を取り除かれます。けれども、そこには罪に無関係な動物が犠牲として捧げられてきたということを徹底的に旧約聖書の時代に教えたのです。
そして、年に一度、民全体の罪の赦しを求める大贖罪日には2頭の雄山羊が用意されてくじ引きで神に犠牲として捧げられる山羊と荒野に追放されるアザゼルの山羊とに別けられます。アザゼルの山羊とされたものは頭に手を置かれて民全体の罪を負わされて荒野に追放されました。(レビ記16:7~10)このアザゼルの山羊が罪をかぶせられるという「スケープゴート」の語源となっており、キリストを象徴しています。

■1ペテロ1:18~19
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

私たちは本来、神に近づくことができない者でしたがキリストに罪を擦り付けることで赦されて神の子となったのです。罪による隔ての壁の大きさと尊い犠牲の上の赦しのコントラストを強く認識していただくことが大切だと思います。神はそれほどまでに人とともにいることを望まれているということです。

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