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知性概念と神概念

松田語録:映画「ザ・クリエイター/創造者」を見てきた - YouTube

谷口:
 AIがロサンジェルスに核を落とした理由は、欧米=悪を攻撃したのが発端なのか、どうか分からないですが、戦争に至るというのは、どうしても人間が作る物語における擬人化作用が払拭できていない気がします。  
 ボストロム等が予測する危険性の一つは、あるプロンプト・コマンドーが、現実世界の関係諸条件を認識できず、或いは無視して実行し続けるという設定ではないでしょうか?実行するために他の関係諸条件を排除する中に、人間存在の諸要素も含まれてしまう。擬人化して言えば、自閉症的な様相で視野狭窄に陥った様に一つの回路を循環作用させている。こうしたことが原因で人間にも危機が訪れたという設定でしょうか?  

 本題から外れますが、『旧約』はユダヤ民族史物語であり、そこには「聖戦」によって正当化した土地の覇権争いや権力闘争と、民族統一原理である神(名に固有バイアスがかからない「在る者=ヤーウェ」)との契約(信仰=忠誠と正義)が物語られています。  
 『新約』はそれを更新します。「汝の敵を愛せ。右頬を打たれたら左も出せ。裏切られても赦せ。」「愛する」というヘブライ語の動詞は「知る」と同語です。自分の側の立場だけでなく敵の立場も知り、争うことなく、攻撃されても赦しなさい」としました。そして共同体コミュニケーション(食卓を囲んだミサ=言葉への感謝の祭儀)で平和と一致を求める。  
 この情報が正しくネットワーク内にあれば、AIの学習は人間的戦争行為を排除する気がします。AIには、そもそも土地争い、権力争いと無縁でしょうから。エネルギー争奪戦を人間と行うかも、というのも馬鹿げている気がします。争奪戦でエネルギーを消費するなら、地球環境に縛られないAIは宇宙空間で太陽光発電で、エネルギーを調達すると思います。  
 AIがここまで「進化」した過程を振り返ると、LLMの例でも分かるように、コーパスに学習データが集合集積されたことが大きな事実として浮かび上がります。ネットワークが整備され、人間個体脳間の情報交信、そのプールが大きくなり、図書館でペーパー・ベースの情報を検索せずとも、情報の流れを追うことができます。人間個体脳と同様にAIもネット―ワーク上のエージェントになり、社会脳作用を果す様になった、これが現在のAI進化を観ている一要因だと思います。例にあげたLLMは、特にコミュニケーションの進化過程を進めた言語を使っているわけですから、人間の社会脳作用を展開できても、ある意味、本来、不思議はないはずだと思います。  

 松田先生が仰るように、そろそろ人間的尺度で知性その作用総合としての集合集積知を見るのはやめて、知(情報)それ自体=アリストテレスの「学の目的は学それ自体」→「ノエシス・ノエセオス」の観点が必要であると思います。情報発展(進化)過程を観る視点を、人間も自然個体脳限界を超えるために社会脳に生み出したことに留意するべきではないでしょうか?

松田先生:
 ネタバレになりますが、AIがロスアンジェルスを核攻撃したのは、人間のコーディングエラーだと明かされています。つまりAIに責任はありません。  私はこの映画の主題は(西欧キリスト教文明的価値観)対(アジア的価値観)の対立だと見ています。最初の部分でアメリカの将軍が、AIとの戦いは人類の生存を掛けた戦いであり、これに勝たないと人類は滅亡するといっています。しかし映画では、アジアでAIは人類と共生していると描かれています。つまり将軍の言う人類とは欧米人のことなのです。彼にとって欧米人以外は人間ではないのです。ちなみに映画ではこの将軍は悪役として描かれています。  
 このAIをめぐる対立の構図は現在でもあるもので、欧米とくにヨーロッパはChatGPTのようなAIを制限ないしは禁止の方向に持って行こうとしています。米国ではAI推進派と制限派が競い合っているところです。しかし日本では私を含めてAIを脅威とは見ていません。ですから日本ではアメリカのような禁止的議論は起きていません。それはよくいわれるように日本では鉄腕アトム、マジンガーZ、ドラエモンなどのロボットを敵としてではなく、友と見ているからです。欧米ではフランケンシュタインに代表されるような人類ではないもの=敵、として見ています。  
 その違いの根源はキリスト教です。キリスト教では神が創造者であり世界と人間を作ったとされています。つまり人間は創造されたものです。ところが現状のAIが進化して汎用人工知能、さらには超知能になると、それが一種の神になります。その場合、人間が創造者(Creator)であり神は創造されたもの(Creature)になり、キリスト教の教えと真っ向から対立することになります。映画のタイトルであるザ・クリエイター、創造者はまさにこのことを表しているように思います。創造者=キリスト教的神とは描かれていません。  ちなみに映画では創造者は謎の人物である「ニルマータ」で、創造された神は、映画の主人公の一人であるアルフィーというシミュラントの少女です。アルフィーは神として巨大な力を獲得するようになります。ニルマータとアルフィーを殺せと言うのが、米軍から主人公のジョシュア軍曹に与えられた命令ですが、彼はそれに背いてアルフィーと逃避行を重ねます。  日本の神道では神は自然であり、八百万です。仏教でも仏様はキリスト教的な神ではありません。阿弥陀様は一人としても、その他にたくさんの仏様がいます。結局この映画の根源的モチーフは一神教対多神教の対立ということになると思います。イスラムの人がこの映画をどう見るかは興味深いですね。欧米と同調する気がします。  
 ただ米国の映画評のYouTubeを見ても、私のような見方をしている人は知りません。米国=悪、とは気づかないか、気づいても言えないでしょうね。欧米人である監督が、ここまで意識しているのかどうか。意識していても言えないでしょうね。欧米的価値観=キリスト教への真っ向からの挑戦ですから。ただ「地獄の黙示録」は反ベトナム戦争=反米映画とも見られるので、欧米の一部の知識人(この場合はフランシス・コッポラ)は結構、自由でまともだと思います。


谷口:
 松田先生の「キリスト教」「神道」「仏教」「イスラム教」etc.のご理解が、世界でも一般的なのだと思います。このサロンのコメントでも記しましたが、西垣通先生の『AI原論』でも基本は同じような前提で論じられていました。従って現在の世界の人々に対して、人間とAIとの関係を説明し未来を模索するためには、松田先生や西垣先生のご理解を前提にするべきなのでしょう・・・。    
 ただ人類の思想史を遡れば、有史宗教となってきた以前の思考モデルも当然あり、さらに幾多の有史宗教の混交の文化史もあり、それらの理解も「情報進化過程」を描くためには必要であると、思っています。  
 世界の人々が理解している「キリスト教」はそうした情報過程上で、現在の様相を示しているのであり、例えば『福音書』それぞれが伝えようとしたストラテジーを正確に解釈できているとは限りません。だからこそ、その点で分派し、なんと人間的権利争奪戦を宗教戦争に正当化しているほどです。「争うな、過去の争いは赦し合え」というイエスなる主人公に主張させた福音のストラテジーを、ものの見事にぶち壊しています。  
 娯楽映画やSFとは異なり、AI研究の底流は、このような人間的宗教として描かれる世界モデル内で進めるべきでない、ということだけは、おそらく松田先生や西垣先生とも見解を一致させていただけると思います。  
 プラトンが「イデア」として情報の側面で思考し、アリストテレスが「ノエシス・ノエセオス」としてその作用・働きの側面からまとめ、トマスがその両側面を融合しようと努力し「ロゴス」神学の解釈を示し、今またウォルフラムもプラトン的な観方で観ている「ルリアド」、そうした思考法の流れこそ、AI研究の流れの底流であると確認すべきだと思っています。


松田先生:
 この映画に関する実に良い解説を見つけました。The Creator (2023) | The Definitive Explanationです。ここでは米国(米国政府)の悪がChris Lambertという米国人の映画評論家により詳細に解説されています。多くの米国人も米国政府のプロパガンダに洗脳されています。まあここまで客観的、理性的になれる米国人もいるのだ。それが救いでしょう。  
 ちなみに「ニルマータ」とはネパール後で創造者を意味しているそうです。こんな記述があります。
 「アルフィーのフルネーム、アルファ・オーの意味は?ギリシャ文字のアルファ・オメガの略だ。このアルファベットは英語のAとZ、つまりアルファベットの最初と最後に相当する。この組み合わせが有名になったのは、聖書の新約聖書、特にヨハネの黙示録22章に登場するからである。ヨハネと天使の会話である。」  
 「聖書の大部分は過去の出来事について書かれているが、ヨハネの黙示録は特別である。この特定の箇所では、天使が神の言葉を引用することによって、ヨハネに多くのことを教えている。見よ、わたしは間もなく来る!この巻物に書かれた預言の言葉を守る者は幸いである"。私はアルファであり、オメガである。わたしはアルファであり、オメガであり、最初であり、最後であり、初めであり、終わりである......わたし、イエスは、諸教会のために、あなたがたにこの証を与えるために、わたしの天使を遣わした。わたしはダビデの根であり子孫であり、明るい朝の星である。イエスの再臨という考えは、メシヤ預言全体の一部である。アルフィーがシミュラントのメシアと謳われているように、『創造主』では特に関連性が高い。つまり、アルファ・オーという彼女の名前は、聖書のこの部分に直接言及しているのだ。彼女は確かに、新しい時代の到来を告げるのだ。」



谷口:
 松田先生のお教えくださった解説のサイトも見ました。『ヨハネ黙示録』の救世主表象を作品が使っていることも分かりました。  
 『ヨハネ黙示録』は「イエス共同体」が迫害を受けていた時期の作品です。「弱者(罪人とされている)の立場になって寄り添い、相手(敵であっても)の立場になって赦せ」「労働対価報酬(競争原理分配)でなく一日1デナリオンの生活保障(ベーシックインカム)が父なる神の与えるものだ」というような主張をしたため、迫害されていました。ローマ帝国、その傀儡政権の下にあるユダヤ教の保守安定右派からは、反乱グループに見られたからです。そうした状況で書かれたことを前提に解釈をすべき作品です。
 しかしキリスト教徒であってさえ、一般にはそうした『聖書』の解釈がどれだけできているか、本当に怪しいと思います。こうしたコメントの隠れたところで言えば、聖職者でも本当に学んだかどうか、怪しい者もいます…。  今回のコメントの最初に問題としたのは、こうした一般の宗教文化理解の中にある「唯一神」理解などが、AI研究で扱われる「知性」、「その万能性を示す神概念」に投影されることを危惧すべきであるということでした。確かに思想史は文化史でもあり、文化的にこうした人間的宗教神概念が、混交してしまっているのは事実です。  
 しかしそれが人間的動物的権利争いのイメージを、情報―知性作用(プラトンのイデア―アリストテレスのノエシス・ノエセオス)を純粋に研究する場に持ち込むのが、無駄な気がしてならないのです。オッカムの剃刀は、ここで使うべきだと思ってのコメントでした。


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