マイノリティの断末魔 閉ぢていざ鮎甘き夕食を

「巻末はハドリアヌスの断末魔 閉ぢていざ鮎甘き夕食(ゆうげ)を」
塚本邦雄の短歌である。この歌が示しているのは、文学が生活の中でどのような位置を占めるかということである。
古代ローマの権力闘争を描いた小説(辻邦生の『背教者ユリアヌス』であろうか、調べていないからわからないが)をキリのいい所まで読み終え、夕食をとるという、パラフレーズすればなんてことない、生活の一コマでしかない。
血みどろの文学世界と楽しい夕食は、はっきりと区切られている。文法的にもそうだし、一文字分の空白もある。「閉ぢていざ鮎」のフレーズには、文学の世界をきっぱりと中断する潔さがある。「閉じる」はこの歌に現れる唯一の動作であり、世界転換の重心として作用する。
しかし二つの世界は区切れているが、隣接していることも忘れてはならない。両者を隔てるのは、たかだか一文字分の空白である。閉じた本は、続きを読みたくなったとき、また開かれる。「ハドリアヌスの断末魔」は両世界の境界を越え、食卓にも響いてきてはいないだろうか。

以上がこの歌の簡単な鑑賞である。文学の世界と、夕食に代表される生活の関係性を教えてくれている。以下では歌そのものからは離れて、この関係性について、もう少し考えを進めたい。
本質的に、文学とは不謹慎なものであると言える。「ハドリアヌスの断末魔」の残響により、何気ない食卓も不穏なものに侵されてはいるが、やはりそれは食卓である。これは映画『ホテル・ルワンダ』で、先進国民の気楽さの象徴として指摘された、「虐殺のニュースを見て、怖いねと一言だけ言って、食卓に向かう」、あの食卓と同じである。
ハドリアヌスだから、この不謹慎さが見えにくくなっているに過ぎない。彼は実在した人物であるが、時代も土地も我々からは大きく隔たっているために、それを感じにくい。現代を舞台にした作品の架空の人物よりも、ハドリアヌスの方がよほど架空の人物に思えないだろうか。
文学のこうした不謹慎さを踏まえると、たとえばマイノリティ文学というものも、それに親しんでいるからと言って別に徳が高まるようなものではないことが分かる。たとえば僕は黒人詩人のラングストン・ヒューズが好きだ。言うまでもなく彼の詩には、苛烈な差別を受けている黒人たちの苦しみが反映されている。それは僕の食卓にも響いてくる。僕がヒューズを読むのは、畢竟ヒューズが面白いからである。差別の解消、弱者の救済などの高尚な思いは、残念ながら、二次的に付随するものでしかない。本当にそれを第一に考えるのであれば、文学を読むよりももっと直接的に貢献できることがいくらでもあるのだから。

ちなみに、これを書いている2024年の4月末に、旧Twitterで話題になっている「西成ポートレート」なるものを巡る議論も、つまるところこうした不謹慎さとどのように向き合うかという問題であるように思われる。


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