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歴史のすみっこ話(5) 〜浜寺捕虜収容所〜

1904~05年にかけて、日本とロシアが激突した日露戦争で、約7万2千人のロシア兵が捕虜として日本各地26か所の収容所に送られました。

その中のひとつ、大阪浜寺の収容所には、最も多い時で下士官以下のロシア兵2万8千人を収容したそうです。

当時の日本は、西洋列強諸国の目を気にしてたからかどうかはわかりませんが、捕虜に対して以下のような厚遇をしていたとか。

●朝8時から午後3時までの時間帯に、運動のため、1000人単位で大鳥神社などに散歩にいかせた。
●ロシアの料理に欠かせない黒パンを食事に出すために収容所内にパン工場を作った
●収容所内にロシア正教・ユダヤ教などの礼拝所を設けた
●日本政府は小遣いとしてロシア兵捕虜たちに銀貨を支給していた

ちなみに、この銀貨欲しさに日本人が収容所にやってきて、焼酎を「ウォッカ」と言って売りつけたりしたそうです(なんと収容所の板塀の下の砂を掘ってトンネルを作って、焼酎と銀貨を交換したとか)。

また収容所近くの銭湯にロシア兵捕虜がきていたという話もあるようです。

そこにはぎすぎすしたものは感じられず、戦場とは無縁ののどかな光景さえ感じられますね。

日露戦争が終わり、ロシア兵捕虜は全員ロシアへ送還されたそうですが、89名の捕虜は病気などで収容所で亡くなりました。

故郷に帰れなかった89名は泉大津市の墓地に埋葬され、地元の人たちが、今もきちんと彼らの墓を管理されているそうです。

日露戦争が終わって、116年が過ぎようとしています。

これからもこの墓地は、人と人は分かり合えることの証明として残り続けるのでしょう。

引用・参考資料:大坂の20世紀 産経新聞大阪本社社会部

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