いじめを撲滅する教員は要らない
いじめの定義をご存知だろうか。
教員ではあれば研修等で一度は聞いたことがあると思うが、平成25年にできた『いじめ防止対策推進法』の中には、
「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
と記されている。
小難しく書いてあるが、要するに
『被害にあったとされる者が、心身の苦痛を感じたら、それはいじめだ』ということであろう。
客観的な根拠は必要なく、被害者であろう者の感情次第でいじめか否かが決まるのだ。
もちろん、このように定めたことには、絶対にいじめを見逃さないという思いがある。それは否定しないが、このことによって学校現場でのいじめの認知件数が爆発的に増えることとなった。
そして、子どもたち同士の揉め事やちょっとしたからかい合いにも、いじめ指導が入るようになる。
「これはいじめではないか」
「このままではいじめになってしまう」
「いじめは絶対に許しません」
「いじめをなくそう」
こんな言葉で子どもたちを指導することで、
子どもたちのいじめに対する意識は変わったかもしれない。
しかし問題なのは、いじめはなくならないということだ。
それは大人の社会を見てれば容易く理解できる。
大人達も陰でののしりあい、ニュースでは毎日のようにハラスメントの問題が取り上げられ、SNSでは誹謗中傷や、炎上案件が後を絶たない。
教員は、いじめを否定しなければならない立場なのだが、いじめを完全に否定できる人間など存在しないはずだ。
なぜなら、どの職員室にもいじめはあるのだから。
それでも、いじめを撲滅しようとする教員は、いじめは無くならないという事実からめを背けて、
いじめの問題を過大に捉えさせようと働きかけ、子どもたちに「いじめは悪いこと、あってはならない、無くさなければならないこと」と教える。
もはや綺麗事でしかなくなってしまった。
しかも、いじめをなくさなければならないという強いバイアスが、いじめ被害者に『耐えなければならない』という考えを誘発しているようにも思える。
私はいじめ指導の方向性が根本的に間違っていると考えている。
『いじめはなくならない、どこにでもあるもの』
ここからスタートすべきではないだろうか。
ここからスタートすることで、
「ではなぜなくならないのか?」という疑問が生まれ、『人間が愚かで弱い生き物だから』だと気付くことができる。
教員自身も今までにいじめに加担してきたという弱さや愚かさを認め、子どもの前で告白し、同じ立場で一緒に解決方法を考えることが最も健全なはずである。
なぜなら、いじめは子どもたちの課題でも、学校の課題でも教育課題でもなく、人類の課題なのだから。
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