見出し画像

日本人のようになれ!ウズベキスタンで尊敬される日本人!

ウズベキスタン。
私たちにとってあまり
身近な国とは言えませんが、
実は日本に好意的な人が多い、
親日国のひとつです。
ウズベク人と日本人の
友好の架け橋となった場所、
それは首都タシケントにある
オペラ劇場でした。
今回は、この劇場に纏わる、
日本ではあまり知られていない
物語をご紹介します。

ウズベキスタンの首都・
タシケントにそびえる「ナヴォイ劇場」。
オペラとバレエのために
つくられたこの劇場は、
ウズベキスタンで以前使われていた
紙幣にも描かれたことがあるほど、
ウズベク人に大切にされています。


ウズベキスタンは、
1924年から1991年まで
ソ連に統治されていました。
首都タシケントにあるオペラ劇場は、
もともとソ連がレーニン政権の
樹立30周年を祝うために
建設を計画した建物です。
しかし土台や壁の工事をしているところで
第二次世界大戦が始まり、工事はストップ。
戦争が終わってから急いで
再建設の準備が進められました。
このとき建設を任されたのが日本人捕虜です。


第二次世界大戦で敗れた日本は、
実に60万にものぼる人たちが
ソ連の捕虜になったと言われています。
このソ連の行為は、
武装解除した日本兵の家庭への復帰を
保証したポツダム宣言に反するものでした。
当時、ソ連の構成国の一つであった
ウズベキスタンにも、
約23000人もの日本人捕虜が強制連行され、
強制労働させられました。
その中の457名がナヴォイ劇場の
建設作業にあたりました。


劇場建設を任されたのは、
当時24歳の永田行夫元陸軍技術大尉率いる
「第4ラーゲル」。
“ラーゲル”は捕虜収容所を意味します。
ナヴォイ劇場の建設にあたり、
永田隊長は隊員に2つの目標を示しました。
ひとつは、ソ連の歴史に残る
オペラハウスになる以上、
日本人の誇りと意地にかけて
最良のものを作ろうということ。
もうひとつは、全員が無事に日本に帰国し、
家族と再会するということでした。


仕事内容は、土木作業から、測量、高所作業、
床工事、レンガ積み、鉄筋と鉄骨の組み立て、
電気工事、足場工事、溶接や電気配線工事、
さらには彫刻など多岐にわたります。


永田隊が勤勉に仕事に励んだ結果、
予定工期が大幅に短縮され、
1947年10月、僅か二年で、旧ソ連の
四大オペラハウスの一つとなる
「ナヴォイ劇場」が完成。
しかも、工期が早いだけでは
ありませんでした。
「日本人たちの建設したものは“できが違う”といわれるものにしたい」
そうした永田隊長の熱い思いに
触れた隊員たちは、
過酷な環境の作業でも、
誇りをもって勤勉に丁寧に取り組みました。


現地のウズベク人たちからすれば、
日本人には関係のない
ソ連の革命30周年を祝うための劇場なのに、
どうしてこんなに真面目に
働くのだろうと不思議に感じていたようです。
ソ連の見張りがいないときでも、
日本人は決して
手を休めることをしませんでした。
こうした日本人の働きぶりを間近で見ていた
ウズベク人も少なくありませんでした。
例えばこんなエピソードが残されています。


「まだ子どもの頃、ナヴォイ劇場を建設する
日本人捕虜を見たことがあります。
作業の後、
いつもクタクタに疲れて帰ってくる姿を
みた私は子どもながらに同情し、
友人と一緒に食べ物を差し入れに行きました。
私の他にも、
日本人に食事を差し入れる人がいました。
みんな日本人の働きぶりを見ていたのです。
驚いたのは、食料を置いておくと、
食べたあとに手作りの
オモチャが代わりに置かれていたことです。
手先が器用なんだと感心したし、
わざわざ私たちのために作ってくれた
その優しさに親しみを感じました」
強制労働にも関らず勤勉に丁寧に作業をし、
その上感謝の気持ちを手作りのオモチャで
表現してくれる日本人に、
ウズベク人も次第に親しみや
敬意を感じるようになっていきました。


1956年、日ソ間の国交が回復され、
ナヴォイ劇場を建設した
日本人抑留者も帰国することになります。
ナヴォイ劇場建設中に亡くなったのは二人。
残りの455人の日本人抑留者のほとんどが、
舞鶴港に引き揚げてくることになりました。
永田隊長は引き揚げの際、
現地に残っている抑留者と
連絡が取れるように、
名簿を作成しようとしました。
普通なら収容所で紙に名前と住所を書いて持って帰れば良いのですが、
この時代は違います。
そんな名簿がもしソ連兵に見つかれば、
良くて廃棄、
最悪の場合は何かの暗号と疑われ、
スパイとして再び収容所送りに
なることもあり得ます。
そこで永田隊長は、
455人の名前・住所・番地を
全て暗記して日本に帰国したのです。
上陸後、永田隊長は一刻も早く
家族に会いたい気持ちを抑えて、
舞鶴の宿で暗記した名前を
一気に紙に書き出したと言います。


ナヴォイ劇場の完成から
19年後の1966年4月26日、
首都タシケントを大きな地震が襲います。
マグニチュードは5.0と、地震の規模は
そこまで大きくありませんでしたが、
震源の浅い直下型の地震で余震も続いたため、
タシケントの町は
瓦礫の山となってしまいます。
約36000戸の住宅や建物が倒壊し、
30万人もの人が住む場所をなくす、
非常に大きな被害となりました。
何もかも失ったウズベク人は、
どん底の中である光景を目にします。
19年前に日本人捕虜の手によって
作られたナヴォイ劇場が、
大きな地震にビクともせず、
変わらぬ姿で立っていたのです。
この劇場は市民たちの避難場所となりました。
タシケントの人たちは改めて
日本人の建築技術の高さに驚きます。


この出来事を機に、
日本人への尊敬の気持ちは、
さらに強くなりました。
ナヴォイ劇場の側面には、
建設に携わった日本人をたたえる
プレートが設置されています。
そこにはウズベク語、日本語、英語、
ロシア語で
「1945年から1946年にかけて極東から
強制移送された数百名の日本国民が、
このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の
建設に参加し、
その完成に貢献した」と刻まれています。


当時ウズベキスタンの
大統領であったイスラム・カリモフは、
このプレート設置の際に、
次のように厳命しました。
「私たちは日本と戦っていない。
彼らは恩人だ、
間違っても、決して日本人捕虜とは書くな」
カリモフ大統領は子供の頃、
週末になるとよく
日本人捕虜収容所に連れていかれたそうです。
カリモフ大統領は当時を
次のように振り返ります。
「子どもの頃母親に連れられて、
毎週末日本人の収容所に行った。
そして、そのたびに同じことを言われた。
『息子よ、ごらん、あの日本人の兵隊さんを。
ロシアの兵隊が見ていなくても働く。
人が見ていなくても働く。
おまえも大きくなったら、
日本人と同じように人が見ていなくても
働く人間に必ずなりなさい』
そんな言いつけを守って育ち、
今では大統領になれた」


ウズベキスタンには、抑留中に命を落とした
日本人抑留者の墓地が13箇所あります。
ソ連時代の末期、カリモフ大統領に対して
「日本人の墓地を1つにまとめるように」
という指令が下されました。
当時、中央政府からの命令は
絶対的なものでしたが、
カリモフ大統領は
これを受け入れませんでした。
その理由は、「ここに眠っているのは、
国づくりに貢献してくれた恩人たちである」
というものでした。
その後も日本人の墓地はしっかりと守られ、
地元の人の手によって
お花が供えられているそうです。


日本から遠く離れたウズベキスタンが
親日国になった理由、
そこには苦しい境遇の中でも
人間らしさを失わず、
誠実に生きた日本人抑留者の存在が
あったのです。


どんな環境、状況であっても
誠心誠意、真心を込める日本人としての
精神が世界から称賛されています。
日本人には敵も味方も関係ありません。
絶対的愛でどこまでも
ウズベク人に仕えました。
この日本の先人の方々に恥じない生き方を
現代に生きる私達も
しなくてはならないと思います。
失われつつある美しい日本人精神を
取り戻します。

共に歩んでくださる方を探しています。



TOP - モデル都市推進本部 (tasuke-i.jp)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?