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日本の子供たちに知って欲しい真実!インドネシアの準国歌がなぜ日本の歌なのか。


インドネシアで歌われている愛国の花
という歌をご存知でしょうか。
愛国の花は
インドネシアで今でも準国家として
愛されています。
しかも、インドネシア語で歌うのではなく
日本語で歌うのです。

なぜ日本語の歌が
愛され続けているのか。

今日はこの歌にわる日本とインドネシアの
深い絆についてご紹介します。

過酷なオランダの植民地政策
インドネシアは17世紀後半から
300年もの間オランダの植民地となって
いました。
19世紀にはの強制栽培制度により
コーヒーや茶などオランダ向けの
栽培地となっていました。
これにより多くの村が崩壊してしまい
インドネシアの食料自給体制は
解体し、餓死者が増え、
平均寿命は35歳に低下してしまいました。
またオランダは天然資源の開発のため
インド人や中国人を
インドネシアに移住させて
彼らを経済流通機関として働かせます。
彼らがインドネシア人の上に立って
支配するようになり、
人種対立の原因となりました。
そしてオランダはインドネシア人との
混血児を大掛かりに作り
決時を間接統治の管理とします。
行政官は混血児、華僑が行い
インドネシア人の政治参加や
行政参加を禁止しました。

オランダ政府はインドネシア人に重税を貸し、
さらに華僑が高利貸しとなり200%の金利に
インドネシア人は苦しめられます。
分割統治のために民族間の
反目を煽って部族闘争を
激化し、教育を禁止し愚民政策を行います。
20世紀に入ると世界から批判を受けて
3年間の初頭教育は行いましたが
学校に通えたのはわずか数%で
上級学校に進学するものには
オランダ語を強制しました。
大学を卒業したインドネシア人は
年に10人程度と
非常に少なかったそうです。
また住民に氾濫を起こさせないために
青年の体育や団体訓練を禁止し
数人で歩くことも禁止します。
住民の集会も禁止され独立運動化など
氾濫意思は全て流刑や死刑に処されました。

国旗掲揚や国歌斉唱はもちろん禁止で
インドネシア人が進行している
イスラム教を弾圧し
キリスト教を広め宗教による
対立も起こします。
このようなオランダによる
過酷な植民地支配で
20世紀初島には住民に民族意識が
芽ばえ始めます。

1939年ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発。
英米は日本に対して厳しい態度で
臨むようになり、
オランダ植民地政府もいわゆる
ABCD法もに加わります。

資源を輸入できなくなった日本は
アジア進行に目を向けます。
しかし、それはオランダのような
搾取するだけの植民地家ではなく、
東亜の解放、英米の支配からの解放を
スローガンに
大東亜共栄圏の実現を主張した
日本の本心でもあったのです。

日本統治時代、
日本は1942年3月から終戦までの
約3年半、インドネシアを統治していました。
日本はこの3年半に
次のような政策を行います。
まず日本はインドネシアの国旗掲揚と
国家斉唱を許可しました。
これは1ヶ月後に取り消しとなりましたが、
1944年に独立を許した時に再任して
民族運動の指導者であった
スカルノやハッタなどを釈放して
民族統一をするための
全国遊説を許可しました。

民族の団結心をつけるため
100万人の青年団や
150万人の警防団、婦人隊、学隊、
隣組などを作って
インドネシア住民を組織化します。
自国を守っていけるように
祖国防衛義勇軍を創設し、
インドネシア人に軍事訓練を行い
軍隊を作りました。
この軍隊は独立戦争の時に
指導的な役割を果たし、
インドネシア国軍創設の立役者となります。
教育面では6年間の初等教育を実施して
学校には校庭も作り体育を重視した他、
インドネシア人の教師養成を目的に
師範学校も設立しました。

崩壊していた食料自給体制を
確立させるために
稲作農業の指導を行い、
農業や漁業、工業、医学、
造船などの専門学校や
訓練学校を設置し、
これにより600人しかいなかった
国家エリートを3年半で
10万人までに増やしました。
そしてジャワに最高諮問機関である
中央参議院や
各地に中参議院を設置し、
インドネシア人を積極的に高級官僚にして
行政能力を持つように育成していきました。
インドネシア全体で250もの
言語が使われていましたが、
ジャワを中心に使われていた
ムラユ語に統一し、
インドネシア語に定めます。
この言語が学校教育やラジオ、
新聞、映画などで
普及したことでインドネシア人の
行動や感情が統一されました。
インドネシア人のほとんどが信仰していた
イスラム教を重視し、当時分裂していた
イスラム教の団体を統合させて
初等教育や軍隊教育においても
イスラム教は重視されました。
このように日本はオランダのように
一方的な圧制を敷くのではなく、
インドネシア人の独立の
機運を育てていったのです。

インドネシア独立に命を
捧げた日本人たち日本軍が
インドネシアを統治する時に
宣伝班が編成され、
1942年3月にジャワ島へ派遣されました。
この時にジャワ島に上陸したのが町田中佐や
副班長として参加した金子智一です。
宣伝班の主な役割は、
現地の日本軍の活躍を内に伝えること、
そして現地の民衆に
戦争の意義を知らしめることにありました。
旧宗主国オランダに変わり、
日本軍の統治が始まると
その基本方針を示す
軍政府国第1号が出されます。
民衆の福祉増進、現地住民との共存共栄、
治安の確立など
そこに書かれた内容から
金子は日本軍の目的が
インドネシア独立の支援であると
理解しました。
俺は命をかけてインドネシアの独立を
手助けするのだ。
それこそが自分の使命だと金子が息揚々と
仕事に邁進する最中、
大本宮から衝撃的な
命令が下されます。
それはインドネシア国旗メラプティと
国歌インドネシアラヤを禁止するというもの。

独立支援とは真逆の大本の方針転換に
憤慨した金子は
インドネシアの独立が達成されるまでは
日本に帰らないと改めて決意を固くします。

1945年3月戦況が傾き
インドネシアでも反日感情の高まりが
見え始めていた当時、
日本軍はインドネシア国内の
集会や政治活動を
一切禁止するようになっていました。
金子は今こそ命をかけて
インドネシアの独立を手助けしようと
自分が全責任を負う覚悟を決めます。
しかし、1945年8月15日日本は敗戦し、
インドネシアにも
連合軍から現状維持の命令が下されます。
立場上、堂々と独立支援ができない金子は
西部ジャワ旅団長馬淵少将と手を組み
軍票や宝石を独立の資金として独立推進団体
アンカタンムダの幹部たちに渡しました。

現状維持の責務を負う日本軍と
再植民地化を狙う
オランダとの戦いに備えて
武器や援助を必要としている
アンカタンムダたちの間で葛藤する金子は
3つの体が欲しいと思い悩みます。
1つは祖国日本と運命を共に死んでいくため。
もう1つは廃墟となった日本の
復興と再建に尽くすため。
そしてもう1つは
インドネシアの独立闘争に身を投じるため。
金子はアンカタンムダの幹部
アブドルハミッドたちに相談します。
彼らの出した答えはいかなる恥をしんでも
日本に帰ってほしいというものでした。
ハミッドは金子に言います。
インドネシア独立はなんとしても
自分たちの力でやらなければなりません。
それを教えてくれたのは金子さんです。

彼らに背中を押され帰国を決心した矢先の
1946年1月5日夜、
インドネシアの独立運動に
加担した容疑でイギリス軍から
出頭命令を受けた金子は
翌日ジャカルタ市内の
グルドック刑務所に収監されます。
その日はくしくも金子の32歳の誕生日でした。

グルドック刑務所には日本人600人、
インドネシア人1400人が
収監されていました。
収監者たちは重い刑罰は免れられない。
独立は果たせないのかと
絶望にくれたことでしょう。
金子自身この刑務所から
生きて出ることはできないだろうと
覚悟を決めます。
それならば思いを貫こうではないか。
取り調べの尋問で
金子はインドは元々誰のものか、
インドネシアは元々誰のものかと
取り調べ官に
質問を繰り返し、
インドネシア独立運動に協力して
何が悪いと主張を続けます。


ある日空を見上げた金子がふと口ずさんだ
インドネシア・ラヤ。
その声に1人また1人と唱和する声が加わり、
いつしか1000人を超える
大合唱となっていました。
今度はインドネシアの囚人たちが
日本語で愛国の花を歌い始めました。
この愛国の花は日本兵が
望郷の思いに堪え切れずに
よく歌っていたのも自然に覚えたものです。
大合唱は毎晩のように刑務所内に響き渡り、
それをリードする金子の大きな歌声は
他の日本人収容者たちにも
生きる希望を与えました。

それから約1年後の
1947年2月2日金子はようやく
日本の地を踏むことができました。
インドネシアの独立のたに力した金子は
1988年にインドネシアから
ナラリア勲章を授与されています。
愛国の花はインドネシアで
準国歌となっていますが
日本が侵略国家であれば、
絶対に起こることではなかったでしょう。
300年ものインドネシアを統治した
オランダの歌を
歌うことは絶対にないからです。
準国歌としては日本語で歌われているものの
スカルノ大統領が自ら
インドネシア語に翻訳し
「ブンガ・サクラ」という
タイトルをつけました。
愛国の花は独立の歌として
今でも愛され歌い継がれています。

大東亜戦争敗戦後、約2000名の兵は
インドネシアに留まり独立戦争に参加。
インドネシア人に戦争指導を行い、
約1000名が戦死するなど命がけで
インドネシアを支援してきたという
事実があります。
昨今では高鉄道をめって
インドネシアとは微妙な関係にありますが、
東亜の解放、英米の支配からの解放を
スローガンに大東亜共栄権の実現を
成しえた先人たちの
努力をお互い忘れてはいけないと思います。


日本は自らの国だけでなく、
アジア解放のために
自らを犠牲にしてまでも
最後まで戦い抜きました。
その高潔な精神が世界から高く
称賛されています。
人の心を揺さぶるのは知識量や
技術力以上に愛情です。
大義を重んじ、愛情深く、
人に徹底的に仕える
日本人の美しい精神が世界が
日本を慕う理由にあります。
昨今ではそのような心が
失われつつありますが、
その高潔な精神は灯のようであっても
今でも一人一人の根底に
失われずにあると信じています。
今こそ、先人に恥じない国を
取り戻さなくてはなりません。


美しい日本精神を取り戻すために
取り組ませて頂いています。
少しでもご関心がある方は
是非、ご覧ください。
お待ちしております。

TOP - モデル都市推進本部 (tasuke-i.jp)

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