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辛いと言う前に辛いねと言ってくれる

緩和ケア病棟はそんな場所だった。

前回記事に自身の再発疑惑が払拭されたことと、母が入院したことを書いた。その後、母はあっという間に旅立っていった。
治療を続けるのが難しくなり、緩和ケア病棟に移って1週間だった。

一般病棟は面会制限が厳しく、週に1度15分のみだったけれど、緩和ケア病棟では毎日通うことができた。最後の貴重な時間を一緒に過ごすことができて、本当に良かったと思っている。でもそれはとても辛い時間でもあった。

これまでの入院とは違う。これまでは面会に行く度に元気になっていたけれど、逆。会うごとに最後のときに向かっているのがわかる現実があった。

それは娘としての辛さと、同病の患者としての辛さがあった。
一般病棟から移動した日、緩和ケアの主治医との面談があった。
そのときに、「同じ病気だということで、見ていて辛くなることや不安になることもあると思うけれど、何か少しでも良い面を探して見るようにしてみて」というようなことを言われた。
そのときはあまりピンと来なかったけれど、すぐに実感することになった。

医療用麻薬が効かなくなってきたとき、鎮静薬を打った最後の日。
思っていた以上に辛く、苦しそうで、そしてそれは主治医の先生が言っていたように「もしかしていつか自分も」という恐怖を呼ぶ。
娘として母を心配して傍にいたい気持ちと、恐怖で直視できない気持ちが入り混じった。良い面なんてとても探す余裕はない。

安楽死が認められていない現状では、鎮静薬(眠ったような状態にして死を待つ)が最後の砦だ。その名の通り、鎮静して穏やかに最後を迎えることが目的なのだと思うけれど、現実はなかなかそうはいかなかった。

看護師さんの反応を見るに、鎮静薬を打つともう話すことはできなくなることが多いのだと思う。でも母はしばらくしても話すことができ、意思疎通もできた。それを見て看護師さんが手を握って喜んでいたから、珍しいのだろう。段々話すのが難しくなっても、何か話しかけたらピースサインだかOKサインをしていた。
それは嬉しかったけれど、その後に見ていて一番苦しくなることが待っていた。

何も食べていないのに何をそんなに吐くものがあるのかという程、吐き出した。吸引されるのも辛そうで、あんなに苦しそうな母の姿を見たのは初めてだった。このときの様子はトラウマレベルだ。

20年以上も頑張って治療して来て、最後が一番辛いって、、、。
娘としての気持ちと、自分もがん患者である恐怖とでメンタルが崩壊しそうだった。

その後も度々苦しそうなときがあり、見ているのが辛かった。どうすることもできないから。
気持ちが限界を迎えているため、安楽死反対している人ってこういう現実を見たことがあるのかと、憤りさえ覚えるレベル。

時間が永遠のように感じたけれど、振り返れば最後の1日の出来事。
夜遅く少し落ち着いた頃に、まだ電車がある時間だったから私は一旦家に帰って休み、朝になったら戻って父と交代するということで帰った。
この前日は病室に泊まって一睡もできなかったこともあり、心身ともに限界だった。

結果的に私が帰っている間に母は旅立っていき、タクシーで向かったけれど間に合わなかった。最後は苦しそうではなかったとのことで、穏やかな顔をしていたことが救い。

母が亡くなって最初は帰ったことを後悔した。
でもフライングで最後の挨拶的なのを2回していて、そのときに伝えたいことは伝えられていた。考えだしたら、あれもこれも言いたかったし聞きたかったとキリがないものだけれど。
母はいつも私のことを心配していたし、耳は最後まで聞こえるというから、私がショックを受けて疲れ切っていたのもわかっていただろう。
あえて私がいない時を選んだのかなと今は思う。

カナダにいる友人が、カナダのホスピスの先生曰く、(患者さんは)最後まで聞こえているし、気持ちもあるし、自分で死ぬ時を決めている、と教えてくれた。


最初に主治医の先生が言っていた「良い面を探してそこを見て」はなかなか難しかったけれど、振り返ってみると緊急入院してから数えても3週間もない間の出来事。
治療を続けられなくなったことや死と向き合う辛さなど精神面の苦痛もあったと思うけれど、肉体的な苦痛に医療用麻薬が効かなくなってきたのは最後の2日程。
渦中ではもっと長く感じたけれど、客観的に見れば、苦しい時間が長くなかったことは良かったと思う。

何より、緩和ケア病棟に入れて良かった。母がお世話になった病院では、悪性腫瘍の患者さんのみ対象としていた。保険診療制度として認められているのは、悪性腫瘍とエイズの患者さんのみ。
それ以外の病気だったら入れない = なかなか面会できないまま。

最初の数日はまだ色々とお喋りする元気があったから、お墓の話や遺影選びなど終活的な話もできた。叔父(母の弟)とも電話で話すことができた。

最後を意識しての時間はとても貴重なもので、そんな時間を過ごせたことは本当に良かった。

そして、緩和ケア病棟の皆さん、特に看護師さんの温かさに出会えたこと。
たとえば私が今通っている病院の看護師さんは、テキパキしている雰囲気。婦人科の手術で入院した病院の看護師さんは、ひたすら明るかった。
緩和ケア病棟の先生や看護師さんたちは、人の痛みがわかる優しさがあった。白衣の天使って緩和ケアの看護師さんから取ったんじゃないかと思うほど。私だったらイラっとしてしまうような場面でも、そんな様子は微塵もなかった。

「辛いねぇ、辛いよね。こんなのやりたくないよね、ごめんね」
「娘さんも辛いよね、大丈夫?」

こちらから辛いと言う前に、辛いねと言ってくれる温かさ。
もっと母の入院期間が長くて、先生や看護師さんたちと近しくなれたらどうして緩和ケアを選んだのか聞いてみたかった。
母の最後に立ち会った看護師さんは、少し泣いているようだったと父が言っていた。そういうことの連続だと思うけれど、それでも続ける理由を聞いてみたかった。
数日で限界を迎えた私にはとても無理で、心からすごいと思う。

中でも一番心温まった出来事は、少し落ち着いて挨拶に訪れたときのこと。
母から事前に、乳腺外科の主治医と緩和ケアに何か美味しそうなお菓子を持って挨拶に行ってと言われていた(熨斗とか絶対につけないでねという一言付き。笑)。言われた通り、熨斗はつけずにお礼の旨の付箋だけ貼って持参した。

乳腺外科の主治医はこの日はおらず会えなかったけれど、緩和ケアの主治医と一番すごいと思っていた看護師さんには会えて、ご挨拶できた。
このベテランの看護師さんは安定感と安心感が半端なく、緩和のプロだと勝手に思っている。
そしてこの看護師さん、挨拶を終えて私が帰るとき、階段を降りていく最後まで見送ってくれた。私が降り切って見えなくなる寸前で「さようなら」と上から声をかけてくれて、気が付いた。涙が出そうになるくらい嬉しかった。

実家から自宅に帰るとき、よく母も上から見送ってくれていて、最後に私も振り返って手を振っていた。母が亡くなり、もう私が見えなくなるまで見送ってくれる人はいないんだと、実家からの帰りに実感したばかりだった。

だからその看護師さんが見送ってくれたことが嬉しくて嬉しくて、大きく手を振って最後の一段を降りて帰った。


上にも書いた友人が教えてくれた言葉。

Grief is like the ocean; it comes on waves ebbing and flowing. Sometimes the water is calm, and sometimes it is overwhelming. All we can do is learn to swim.

Vicki Harrison

きっと母を亡くした喪失感は一生残る。
人の感情や悲しさは波のようなもの。穏やかな日もあれば、大きな波が襲ってくることもある。でもきっと、段々と上手に泳げるようになる。

最初は苦しそうな様子や辛かったことばかりが思い出されたけれど、楽しかった思い出やこれまで一緒に過ごしてきた時間を思えるようになって来た。
日にち薬ってあるんだなと思う。

母に、「47年後に迎えに来てね」と言った。
私はもう大病せず、再発も転移もせず87歳まで生きるから。





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