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親が子どもにできること

今朝、Facebookで下の言葉を引用している方がいらした。

監督就任1年目、新加入選手会見後の懇親会で、オシムは巻誠一郎の父親にこう尋ねた。
「あなたは、息子を最後まであきらめずに走る子どもに育てましたか?」

『オシムの遺産』より

子育ては子どもが育つがままに、という言葉は、半分無責任な部分がある。子どもがどう育とうとも、それは子ども自身の課題であるのだ、と信じたい大人たちの犠牲になるのはいつも子どもだ。

人間は、社会生活で育つ生き物だから、他者との関わり無くしては育たない。家族は子どもにとっての一番身近な社会だ。そこから思春期にかけて、少しずつ外の社会への道を自ら切り開こうとしていく。身近な先達たちをできるだけ真似て、社会に順応しようとしていく。(言われたことをする、ではなく、真似る、というのがポイントだ。)

こういうことを書くと、では子どもが何か困っているのは親の責任なのか、と責任一元化論をぶつけられるかもしれないが、もちろんそうではない。大人にとっても、子どもとは未知の社会的生物であって、その関係性は、お互いがどういう人間なのかを手探りでトライアンドエラーしながら作り上げていくしかないからだ。
関係性なので、流動的でもある。バグの修正方法はいつも違うし、いつもブラックボックスだ。今正しいように見えても、蓄積された誤差が何年後かに大きなトラブルを引き起こすかもしれない。そのときどき、メンテナンスしながら、最適解を探していくしかない。

未来の出来事はそう確実に選べないし、起きた過去は変えられない。そういうグレーで息苦しい事実を認めながら、それでも一番身近な大人として、子どもが自立して生きるために必要な力を(それはご飯を炊けるとかお金を稼げるとかキャンプ生活ができるということでもなく、一人で物事を考え決めるための精神的な支えを)どう育てるか、ということが課題なのだと思う。

大切なのは、最後まで諦めずに走り抜ける力ではなくて、諦めずに走り抜けた先に誰かにバトンを手渡すために、
 ・自分だけでは成し遂げられないことを見極める力
 ・誰かに助けを求めて協力してもらえる力
 ・誰かに求められた手を、差し出すことができる力
だ。だって、人間は社会がなくては生きられない生物で、社会は一人の力で動くものではないからだ。
そしてそれは、親と子、大人と子どもという世代間でのやり取りから、少しずつ子どもは子ども同士の関係性に移行しながら、同じ時代を生きる仲間との試行錯誤で学び手に入れていくしかない。だから、親が手渡せるのは「最後まで諦めずに走り抜ける力」まで、なのかもしれない。

子育てが苦しいと思うとき、それは誰が悪いのでもない、親も子も未熟な人間同士なのだからどうしようもない感情なのだと受けとめて、それでもより人間らしく生きる力をお互いに育んでいくにはどうしたらいいか、と、悩み続けるのが正解だと思う。悩み続けても、それを支えてくれる友人や、自分自身の頼る力を信じて、なんとか乗り越えていくのだと思う。

子どもは、成長していつか自分を離れていく。
NASAの宇宙飛行士は宇宙へ行くときに家族を発射台の近くに呼べるが、その家族の「定義」には、親は含まれていないらしい。なんて真理をついた定義なのか、と感心する。
NASAの家族は「配偶者・子・子の配偶者」のみだ。
そう、親にとって子どもは家族だが、子どもにとって必ずしも家族である必要はないのだ。親は子どもを持つことを選び、配偶者を選び、自己の選択に基づいて家族を構成しているが、子どもは親を選んで生きているわけではないからだ。

「育ててやったのに」
という言葉がいかに空虚か、と思う。

子どもに、あなたは家族である、と認識される親でいたいと切に思う。そのためには、子どもの問題を子どものせいにすればいいわけでも、親が全てを引き受ければいいわけでもない。
一緒に、このグレーな世の中とグレーな関係性を、味わい、楽しみ、時には悩みながら、一歩一歩進んでいくしかないのだと思う。

いつかそのことを、懐かしく思う日がきっとくる。
そのときに、確かに自分はそこで頑張ったのだと、親子共々思うことができたらいいと思う。
誰かの評価なんてどうでもいい、自分たちだけの物語を作る力を一緒に育てていきたい。