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子どもの夢を守る行為は大人の精神を救う

クロード・レヴィ=ストロースは著書『火あぶりにされたサンタクロース』のなかでこう語っている。

私たちは、子供らにとってのサンタクロースの権威を傷付けないよう、いろいろな犠牲を払って、気を配っている。このことには、私たちが心の奥底では、ささやかなものとはいえ、見返りを求めない気前の良さとか、下心なしの親切などというものが存在することを信じていたい、という欲望を抱き続けていることがしめされているのではないだろうか。

ほんの短い間であってもよい、あらゆる恐れ、あらゆる妬み、あらゆる苦悩が棚上げされる、そんなひとときを、私たちは望んでいるではないだろうか。
たぶん、私たちは完全には、サンタクロース幻想を、共有することはできない。それなのに私たちは、この幻想を守る努力をやめない。

なんのために?

たぶん、私たちは、その幻想が他の人々の心の中で守られ、それが若い魂に火を灯し、その炎によって、私たち自身の身体までが温められる、そんな機会を失いたくないのだ。


今年も、子どもが通う保育園では、数週間前から有志の親たちが集まって相談を重ね、当日も仕事の合間を縫って食事やケーキの準備に参加し、クリスマス会の様々を支えた。

特に宗教的にクリスマスと関連のある保育園ではないのだけれど、子どもが心の底から楽しみにしているこの行事を、なんとなく「利用して」、親たちが贈与の快感を感じるような仕組みになっているのではないかと感じなくもない。
それはおそらく、レヴィ=ストロースが書いたように、わたしたち人間の根源的な欲求のひとつなのかもしれないと思うし、それを、夢見る子どもたちのために全力で全うするこの親たちの濁りなき愛が、集団としての幸福を見せてくれているようにも思う。


世の中は、子どもをさっさと大人にしてしまおうという流ればかりが目立つけれど、子どもは大人とは違う世界で生きていて、わたしたち大人は自分の忘れかけた子ども時代の心の機微を想起しながら、彼ら子どもへの無償の贈与を喜ぶことが本来の役割なのだと思う。

そう思うと、子どもの世界を守る親という仕事はとてもとても貴重で味わい深いものになる、ような気がしている。


大人が全力で注ぐ愛情を、子どもたちは戸惑いなく食べて成長してくれる。差し出したものを丸ごと飲み込むこの生き物たちを、本当に愛おしいと思う。そんなに丸呑みして、もし大人に悪意があったらどうするんだよ!?と、時々不安になる。

絶対的な愛情の形を知って、そうでないものと、それらしいけど本当は違うものと、見分けがつくように、育って欲しいと思う。
芸術的審美眼が経験なしでは身につかないように、愛情の審美眼も、長い時間の多様な経験なしには、身につかないのではないかと思う。


レヴィ=ストロースのテキストを読んでいて、ふと、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を思い出した。

強制収容所の中の父は、子のためにありとあらゆる方法で現実世界とはかけ離れた世界を提供し続けようとする。

あれは親の愛情の映画だとばかり思っていた。もしかしたら本当は、How to liveを伝える映画なのかもしれない。
誰かへの、何かへの、無償の贈与。
それによって、たぶん、人の心は救われることがある。


ポトラッチを想起させる贈与の概念が、ポトラッチという習慣を禁止しようとした宣教師たちの信仰する宗教の行事の中に見出されるなんて、なんだか皮肉なものだなと思った。

メリー・クリスマス

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