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暇な子どもたちは未熟なホモ・サピエンスから成熟したホモ・ルーデンスとなった

自粛生活ではたと気づいた

都会の子どもは忙しくて、土日に誰かと遊ぼうと思ってもみんな習い事に行っていたりサッカーの試合だったり、親と一緒にお出かけしたり、基本的にはどこにも誰もいなくて、もれなく我が家もそれを前提に家族の予定を入れていたりしたので、ずっと、暇とは無縁だった。

それが、毎日保育園もなく、土日も平日も関係なく、家にいていい何してもいいってことになったので、親はともかく子どもは暇になった。

え?明日も保育園休み?なんて言っていたのは最初の3日くらいで、今は、明日のことなんて考えもせずに全力で今を遊んでいる。

わたしはずっと子どもの意思を育てるということはどういうことなのか?を主軸に子育てを考えてきた。我が子なのでそううまくはいかないけれど、いい保育園に巡り合い、同じようなことをイメージしている親たちとたくさん出会って、子どもの意思を育てるということはこういうことなのかな?と、ぼんやり形作られている何かを掴もうとするとスルリと指の間から滑り落ちてしまうような体験を繰り返しながら、ここまで5年と少し子どもを育てている。

最近、うちの子は、どこにいても自分の意思を話すことができるようになってきたな、と感じていた。それから、どこにいても何もなくても楽しく遊べるようになってきたな、とも。だから少し満足していたのだ。「自分が考える子どもに必要なもの」を「自分ができる範囲で子どもに提供できていたかもしれない」と。

けれどもこのヒマヒマ自粛生活の中で、はた、と気づいたのだ。あれ?わたしは本人の意思を尊重するようでいて、やっぱり自分のルールに彼を当てはめようとしていたのだな?と。

遊ぶとはどういうことか

保育園の園長が、よく「遊びこむ」という言葉を使う。「遊びこめるようになってきた」という言い回しを使うことを考えると、ただ遊ぶということでもないようだ。最近、遊びこめるようになってきたね、というのが至上の褒め言葉である。それは子どもの周りの環境とも大きく作用するものであるらしい(親はその環境づくりの担い手だ)。

遊ぶということは、どういうことなのか。 Wikipediaによる解説はもちろんあるのだけれど、わたしはカイヨワの「遊びの特質」の項目を忘れないようにしたいと思っている。この特質が守られていることが、人間の本質的な環境や世界との関わりに大切な「遊び特有の効果」をヒトにもたらすと考えられるからだ。

・ 自由意思にもとづいておこなわれる。
・ 他の行為から空間的にも時間的にも隔離されている。
・ 結果がどうなるか未確定である。
・ 非生産的である。
・ ルールが存在する。
・ 生活上どうしてもそれがなければならないとは考えられていない。

Wikipediaにはこんな記述もある。「他の高度な知能を有する動物に比べて、ヒトは特に遊びが多様化・複雑化している。、生物として成熟した後も遊びを多く行ない、生存にはまったく不要と思われるような行動も多く見受けられる。これを他の動物ないし生物との区別と捉える考えがある。」つまり、高度な遊びをこなすことが、人間としての知性の結果なのだ。

遊びの重要性は発達心理学的な観点からも常に語られていて、特に子どもは遊びを通して発達していくので、子どもの時期の遊びをいかに守るかが重要だと考えられている。幼児期の発達の流れの中では以下の順を追って(時には過程を逆戻りしたりしながら)遊びを体験していく。

・ 個人の中で完結する遊びを楽しむ
・ 周囲と並行しながら個人的に遊ぶ
・ 周囲と協力して遊ぶ

さて、「遊びこむ」とはどういうことなのだろう。
きっと、この、「遊びの特質」を、「発達に見合った様子で」、子ども自身が日々の生活の中でどれだけ体現できているか、邪魔されずに没頭できているか、自分の中で自分なりのルールを作って非生産的に楽しめているか、ということなのだろう。

これまで忙しくしてきた中で、我が子の遊びの特質は守られてきただろうか。彼ら自身が作り上げるルールや、その理不尽な非生産性を、わたしは守ってきただろうか。「遊びこむ」彼らを邪魔してこなかっただろうか。

遊びとアクティビティの違い

世の中には、さまざまなアクティビティが溢れている。なんとか教室、なんとか体験、なんとかワークショップ、準備された何かを、準備された時間に集まって、やる、すべてがアクティビティだ。そこには大人目線のルールと生産性と大人の意思が溢れている。そりゃそうだ。そもそもそのアクティビティ情報へのアクセス権限は大人にある。

遊びは、アクティビティとは違う。「焚き火をして遊ぼう!」というアクティビティはもはや遊びではない。(ここら辺はこの本↓に詳しいのでご参照ください。)


ふと思う。

わたしが子どもと遊ぼうと思ったとき、わたしは彼を公園に誘ったりしているなと。キャンプに誘ったり、一緒に映画を見たり、なんでも、いいのだけれど、とにかくわたしは彼を、誘っている。

彼もわたしを、誘う。ザリガニ池には親と一緒じゃなきゃ行けないし、遠くの公園に自転車で行くには親と一緒じゃないと難しいし、そもそも玄関を出て道路を走るだけのことでも一人では許されないのが幼児期だからだ。

ああ、と気づいた。わたしは、子ども一人で完結できる世界で子どもを野放しにすべきなのだと。どこか遠くの野放し可能な場所を求めてキャンプに出かけるのではなく(それはそれでアクティビティとして最高なのだけど)、それとは別に、彼自身の能力の中で、彼が解決できることのなかで、彼を自由にする時間が大切なのだ。

彼はいま、ホモ・ルーデンスとして生きている

ホモ・サピエンスは、Homo sapiens、ラテン語で「賢い人」を意味している。賢い生き物であるということを誇ってきた人間らしいネーミングだなと思う。それに対して、前述のカイヨワと同様に遊びに関する研究を残したホイジンガは、人間が「遊びこめる」生き物だということに注目して、ヒトをホモ・ルーデンス、Homo ludens「遊ぶ人」と呼んだ。

自粛生活が続くなかで、未熟なホモ・サピエンスである我が子は、毎日自分自身で移動可能な範囲(家の中、ベランダ、マンションの中庭、歩道など)で遊び尽くすようになった。わたし(と夫)が、自分の仕事や家事で手が離せない時間の彼の自由を容認するしかなくなったからだ。

家には生き物が増えた。ヤモリ、カナヘビ、その餌になる蛾、ワラジムシ、さまざまな収穫物がやってくる。

彼は毎日、薄汚れている。木に登り、土を掘り、走り、汗をかき、夜お風呂に入るまで手だけは何度も洗うので手は異様に綺麗なのだが(笑)、とにかくうっすら汚い。日にも焼けて、黒い。

家の中では筆を持って絵を描いてみたり、プラレールを恐竜で破壊してみたり、ベランダのカブトムシの幼虫たちの住処を水で湿らせたりしている。

彼は本当の意味で、自分で遊ぶことを覚えた気がする。
まだまだ未熟なホモサピだなと思っていたのに、いつの間にかわたしよりずっと成熟したホモ・ルーデンスに成長してしまった。

彼をみていると清々しいのは、わたしも退化したホモ・ルーデンスだからかもしれない。