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生まれた子どもと家族を作る

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家族って自然にできるものなのか?と常々疑問に思っています。少なくともそこには、構成員の様々な事情や性格やそれを取り巻く社会の様子というものがあるわけで、そこが多種多様な以上、家族… もっと読む
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2019年4月の記事一覧

集中力のある子どもを育てるには、黙る、しかないんじゃないか。

集中力のある子どもを育てるには、黙る、しかないんじゃないか。

子どもは、意味のわからないことに、謎の方法で、没頭するなあ。と思う。

でも実はこの没頭が大事なのではないかと思う。

集中力のある子どもに育てるために、どうやってふと訪れる子どもの集中を妨げないでいられるか、ということを追求していくと「傍観」にたどり着いた。

質問もしない。声もかけない。ただ、相手が安心できる位置にいる。親の根気が試される気がする。

見守りという言葉を使ってもいいけれど、軽く

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子も親も快適環境を拡張するのをやめてみる

子も親も快適環境を拡張するのをやめてみる

子を自然に連れ出したら、あまり、関わらない。声をかけられるまでは、存在を目の端に入れながら、自分は自分で楽しむ。

子はそんな親を見て自然を楽しむことを知るのだろうし、同じことがやりたければ模倣し、自分なりの遊びを見つければそれに夢中になる。

0の頃から、遊びに出るときにオモチャを持たずに出かけるようにしていた。家の中のお気に入りを外に持ち出したら、そりゃいつも通り楽しめるのだけれど、それは快適

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外遊びに怪我がつきものなので最低限の応急セットを作ってみた(動画)

外遊びに怪我がつきものなので最低限の応急セットを作ってみた(動画)

一緒に外に出る時間を増やそうとすると、怪我をする機会も増えるわけで、さらに怪我のせいで「帰りたい」ってなることも出てきたりして、その場でどうにかできるものは対処すべきだという結論に達しました。
もちろん、医師の処置が必要なものは必ず連れて行くべきなのだけど、それでもその場の応急処置が大事だったりもします。

基本は、止血をすること。汚れを残さないこと。

この二つがしっかり守れれば、その後の治りも

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WHOの指針にだいたい合わせて子どもの生活を作るってこういうことだった

WHOの指針にだいたい合わせて子どもの生活を作るってこういうことだった

前回の記事でWHOの5歳以下の身体活動の指針を翻訳してシェアした。『WHOが出した乳幼児の「過ごしかた」の指針が具体的でわかりやすい(翻訳しました)』 ←こちら

母の仕事が身体について考える仕事なので、子どもが生まれてからずっと、求める保育をしてくれるところを探して、結果、身体運動を十分確保してくれる野外保育の保育園に通うことになりここまで丸3年通い続けている息子、4歳。

通わせているとわかる

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WHOが出した乳幼児の「過ごしかた」の指針が具体的でわかりやすい(翻訳しました)

2019年4月24日、WHOが、『5歳以下の子どもの身体活動と不活動、および睡眠についてのガイドライン』をより読みやすい形にして、提言としてWebで公開した。(下に提言の一部を翻訳したものを掲載しました。ご覧ください。)

今回公開されたのは『To grow up healthy, children need to sit less and play more(健康に育つためには、座る時間を減らし

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子育ての中に潜む、AI広告みたいな、わたし

子育ての中に潜む、AI広告みたいな、わたし

行動の決定はどこから始まるか考えてみると、情報を得ることから、なのではないかと思う。そもそも行動するかどうかも、情報を収集して取捨して、行動するかしないかを選ぶのだから当然だ。

情報の集めかたは量も質も人それぞれで、そのときの課題に合わせて、どのくらいの何を理解したらいいのか、どの精度で把握すべきなのか、その過程でも実はたくさんの判断が必要なので、情報収集それ自体もプロセスとして認識していいよう

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もっともっと一緒に外へ行こう

外で遊び続けている息子の動画を遡って、半年ごとにアップロードしてみた。進化を感じる。あっという間だ。

人間の「感覚」の半分以上が「身体を通して得る感覚」だ。だから感覚を楽しませる運動は全てが彼らにとって遊びだ。

できるだけ広い場所で、できる範囲の高い所へ、できるだけ速く、出来るだけ楽しく、できるだけおおらかに、一緒に遊びたい。

まだ字をおぼえないで

まだ字をおぼえないで

子どもを育てていて一番面白いとのは、自分の常識というものが自分が身につけてきた鎧だと気づくことなのではないかと思う。その常識が身につく前に、人間がどんなことを感じて何を見て何を聞いて生きているのか、その例が目の前にあるわけだ。

私自身は活字中毒で、記憶にある子どもの頃の記憶はすでに文字を読むようになってからのものが多い。だから、文字が読めなかった頃の気持ちはわからない。

今、街を歩けば、看板の

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